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2006年03月25日

にしすがも創造舎演劇上演プロジェクト『冬の花火・春の枯葉』

にしすがも創造舎にて、東京国際芸術祭2006の最後を飾る作品、Ort-d.dの倉迫康史さんが演出した「冬の花火・春の枯葉」を見てまいりました。
本作品は、原作として太宰治の戯曲「冬の花火」と「春の枯葉」、加えて小説「おさん」という3つの作品が、第○場という形で途切れることなく展開させられるものでした。

開演前には、「クラブ斜陽」と銘打ったイベントが用意されていました・・・戦後キャバレーの雰囲気を模して作り上げられた舞台美術の中で、踊り子のダンスを見ながらお酒が飲めるという嗜好、客席へと至る通路にもそれらしいポスターを貼るなどの徹底ぶり。
私個人としては、トイレの入り口を示すランプが、当時を思い起こさせる風合いに変更されていたことに感動しました・・・女給さんも着物にエプロンという倒錯だったり、当時の男性客に扮した役どころがウロウロしているなど、細かいところに気配っている素敵な空間でした。

そんなこんなで、お芝居が始まる前から何となく楽しい気分にさせられてしまい、演劇への期待も高まる訳ですが、芝居が終わる頃には、空間作りで稼いだ点数も大分減ってしまっているのです。
この感覚は、前回の企画公演「サーカス物語」でも感じた、思ったほど面白くない気がするという手放しで賛美できない感情とイコールのように思う。
トータルとしては、決して不満足では無いのに、あまり点数が伸びていかない・・・実力はあるのに、あんまり人気の無いフィギュアスケートの選手と同じような得点の仕方に似ているか・・・。

今回の作品を見ていて感じたことは、演出法のごった煮的な演出が多いということでした。
発話に関しては地点の三浦基の言葉が見えた気がしましたし、詩的な振る舞いでは山の手事情社、集団での言葉や舞台音響はク・ナウカ・・・詩的な風景を描き出そうとする幾つかの劇的試みを行っている各々の集団の方法論を相互組み替えしているのが、Ort-d.dなのではないだろうか?。

そして言い換えてしまうと、Ort-d.d的な演出手法などというものは、無いとも言える。

アフタートークでも語っていたが、Ort-d.dは次のステップに移る中で、独自の方法論を考えていきたいと述べていたことからも、今までのそれが詩的な舞台で役者をどう振舞わせるかに関して、倉迫語として確立されたものでは無いことを自らの言葉で示しているのだろう。
舞台空間の作り込みや、クラブ斜陽といった企画・・・役者らが前もって作品を作り上げて実際に上演させるというワークインプログレスの試みなどという話から考えると、Ort-d.dや倉迫康史は公演の為の集団ではなく、公演の為の企画屋・・・プロデューサーとしての側面が色濃いのではないだろうか・・・。

安易に賛美したくないという気持ちは、そんな企みが演劇の中から匂ってくるからなのかも知れない・・・もっと素直な劇作品を見る機会があれば、こういう印象も変わってくるのだろうか?。

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少年社中『光の帝国』

青山円形劇場にて、少年社中の「光の帝国」を見てまいりました。
本作品は、前作品「リドル」に続く、廃墟に眠る少年の夢3部作の第2作目ということで、前回と同様に青山円形劇場での公演でした・・・私は、円形の似合うお芝居をする劇団として少年社中を掲げているのですが、期待通りに青山円形に頻繁に出現するようになってうれしい限りです。

前回作品のリドルで登場したキャラクターの名前を、タブらせる形で構成された本作品・・・今回の光の帝国は再演作品ということなので、名前の設定が当時から変わっていないのか、どうなのかは定かではないのだが、ネーミングの幼さを考えると、当時から変化されてはいないのではないかと・・・。
となると、リドルの方が今回の作品になぞらえる形で書かれた作品で、キャラクターの名前も引用したものでは考える方が妥当な気がしてくる。

そうすると、前回の作品のキャラクター構成の幼さ・・・ゲームからの引用がこの時代において平然と行われてしまっていることの意味づけもすんなりと出来る。

さて、本作品であるが、前回の作品と比べると良く出来た作品だったと言えるのではないだろうか・・・前回と同様に中央部分にオブジェが配されていたのだが、今回は鉄パイプで組み上げている為か、視覚的な弊害にはならなかったように思う。
円形中央のオブジェや、退廃した近未来的なイメージを髣髴とさせるパイプ組みの出捌け口など、高低差を生み出して立体的な円形を、さらに上下方向へと拡張して観客を劇空間に飲み込もうとせんばかりの大きな演出。
加えて、YMOのサウンド等をリミックスして作り上げた楽曲の高揚感や、天井中を覆わんばかりの照明、ムービングライトを駆使した空間的な光作り・・・これでもかというエンターテイメント空間といえるだろう。

この安心感は、少年社中ならではなのだろうと、鑑賞しながら感じさせられた。
欠かさずに見ている劇団で、最も長いのは、少年社中である・・・最近は、その作風や移り変わっていかないことに疑問を感じてはいるけれども、やはり見続けているのは、この総合エンターテイメントとしての魅力ゆえなのだろう。

少年の夢を物語として具現化することだけを考えている劇団・・・その根本は、少年が空を見上げる一瞬の姿である。
希望や未来に溢れた幼い少年の妄想・・・思春期にすら至っていない彼の世界は、如何ようにも変化を遂げ、己の期待するゴールへと疾走していく。

少年社中という劇団の見る夢は、少年以外のなんでもない・・・少年の夢を見れなくなったとき、少年社中はその意義を失い、そこで夢は終わる。
次の段階にシフトすることは、もしかしたら決して起こらない・・・今回の作品をみて、強くそう感じた。

大人がいる限り、廃墟に眠る少年の夢は途絶えることは無い・・・需要はある、でもそれを掘り起こす者は移り変わるのだろう。

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2006年03月23日

FICTION『来世こそ』

THEATER/TOPSにて、FICTIONの「来世こそ」を見てまいりました。
前回公演「ヌードゥルス」で、あまりにも面白くて、珍しくブログで大騒ぎしてしまったFICTIONの本公演・・・期待も高らかに今回も早速見にいってきました。

物語は、産婦人科の先生の医療事故で頭が伸びた状態で生まれてきてしまった女がその医者を探して旅に出る物語と、その女の借金を取立てをしていた男が、親分の依頼で人を探すことになったという物語が、結合していく過程を示すものでした。
登場人物の殆どが、体に異常を持っており、精神を病んでいたり、耳が聞こえなかったりする・・・そんな彼らの精一杯生きる様が提示されて、彼らの悲惨さを拭う為の1つの希望として、来世こそ・・・という言葉が示される。

というわけで、前回作品のタイトルが、ヌードルを作る者達の意味でのヌードルズから来ていることを考えると、今回の作品はもっと明示的に言わんとすることが内包させられるいることが瞭然である。
簡単な物語のあらすじからも想像されるように、今回の作品は前回作品が終始お笑いで通していたのに比べると、欲が出たのか観客を泣かせに掛かってくる後半があり、それがしっくりこなかった。

前回と同様に、前半は素直に爆笑の連続であっただけに、後半で笑いが薄くなると同時に、良い話に仕立てようとする意図が露骨になり、折角の気分の高揚が萎えてしまったのだ。
私に関して言わせて貰うと、そんなものは全く求めていなくて、どちらかといえば、悲惨な人間は悲惨に終わることのほうが、物語としては上手いのであって、そんなありきたりの物語が見たいわけではなく・・・前回の公演が面白いという項目のみにおいて高得点を取り得たのも、それのみに注力していたからに他ならない。
終わりよければ全て良しという言葉は、演劇においても決して間違った言葉ではないと感じる。

それぞれで、その終わり方が如何なるものかは変わってくるが、FICTIONは笑わせてナンボで、その人間の笑いをという感情を、劇場で開放させて終わらせてあげることが、何よりも重要であって、それがそれなりに難しいと思う。
それをやってのけてしまった前回作品は、やはり私の中では、傑作として未だに脳裏に焼きついている。

今回の公演も、FICTION的なネタの組み方は随所に見られて、満足は出来たが、終わり方はどうも居心地の悪いものを感じざるを得なかった。

それと、今回の物語はスケールの小ささを感じてしまった・・・北海道という場所を舞台にした数日の物語が今回の作品であったことと比べると、前回作品は登場人物達の一代記であり、猿すら話し始めるだけの年月が描かれ、小さい世界の壮大さというギャップを垣間見るに至ったという点でも、ある意味で画期的だった(バカバカしいのだが)。

なんだかんだいって、面白かった・・・次回公演もきっと見に行くだろう。
そしてそのときに、ヌードゥルスのDVDを買うだろう・・・。

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2006年03月20日

ドイツ座『エミーリア・ガロッティ』

彩の国さいたま芸術劇場にて、ドイツ座・ミヒャエル・タールハイマー演出の「エミーリア・ガロッティ」を鑑賞してまいりました。
本作品は、18世紀ドイツ啓蒙主義の代表的存在であるレッシングが「市民悲劇」として、鋭い社会批判を込めて書いた戯曲・・・この古典のエッセンスのみを抽出し、新しい息吹を与えて現代に甦らせた本作品は、ドイツのみならず、ニューヨーク、モスクワでも上演され絶賛されたという傑作。

奥へ向かって狭くなっていくというシンプルな舞台、壁はベニヤ板を天高く張り合わせたような出来で、それらがそれぞれ扉の体を成しており、時折役者はそこを捌け口にしたりしている。
奥へと伸びる舞台を、役者はゆっくりと(時に飛び跳ねたりしながら)前後に歩く・・・この歩いている姿形が、「花様年華」の主題曲のリズムに合わせて提示される。
人は、歩く姿でもってこれほどまでに多くのことを語れるのか・・・巷の身体としての語る体ではなく、純粋に1人の人間が歩くことで語る言葉がそこにはあった・・・きっと街行く人々の歩く姿も、じっくりと見れば同じような言葉が聞こえてくるのではないかと想像させた。

とはいえ、そこには魅せるだけの歩行、それだけの身体がありましたけれど・・・。

言葉も面白かったですね・・・アフタートークで、演出家のミヒャエル・タールハイマーやドラマトゥルクのハンス・ナドルニーが語っていた「濃密にしていった結果としての言葉の形」が、とてもシンプルな形でそこにありました。

それと役者の身体ですね・・・演出というよりはコレオグラフィーに近いという演出家の発言は、言い得て妙という気がしました。
古典を濃密化し、拡張した結果、言葉や身体は誇張的に変化した・・・それ故に身体は振り付け的になっていかざるを得なかったという、そしてこれらは劇製作のプロセスの中で見出され、決定されていったというのだ。

舞台を見ていて、規模は違えどもチェルフィッチュを彷彿とさせたのだが、アフタートークで演出家が言っていたことは、当にチェルフィッチュが実践していることと殆どイコールだといえるだろう。
同時代演劇に関しての言及をタールハイマーは避けていたが、両者を見知った観客から言わせれば、世界的な時勢を背景に、出るべきものはやはり同時代に出てくるのかもしれない。

そういう確信と、今後への期待を抱かせるには十分な作品だったといえるだろう・・・面白い作品であった。

推敲します。

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2006年03月18日

にしすがも創造舎演劇上演プロジェクト『4.48サイコシス』

にしすがも創造舎にて、演劇上演プロジェクトのvol.2作品としての提携作品「4.48サイコシス」を見てまいりました。
イギリスの劇作家サラ・ケインが1999年に書いた当作品を、翻訳・ドラマトゥルクとして長島確氏を、そしてベケット・ライブを手がける阿部初美さんの演出で構築した本作品。
WEBサイトにドラマトゥルクの長島確氏による作品解説が掲載されており、ここから読み取れる世界観を、舞台作品として粘り強く作り上げていったなぁという印象の作品でした。

それが、演劇作品としてどこまで面白いものであったかというと、甚だ疑問であり、正直言ってしまえば失敗作であったように感じられたが、オリジナリティー溢れる言葉や役者のあり方・・・メディアパフォーマンスとの融合、観客を入れ込む演出など・・・実験的ではありました。
私が今まで見た作品の中でも、1・2を争う特異性を有していたように思いました。

このような特異な印象は、その多くの割合を戯曲そのものの特長によって定義されているようでした。

羅列される言葉、ディスコミュニケーションの風景・・・物語らしい物語はなく、ただただ社会の現状とその中の人間の深層を描き続ける時間は、観客を辟易させるには十分でした。
途中で席を立つ観客もチラホラ、その気持ちも分からないでもなかったが、舞台の面白さ、メッセージの露呈といったものが、後半に集中されていることを考えれば、最後まで見たほうが良かったとは思う。

とはいえ、この感覚は、多くの演劇作品を見ているからこその楽しみ方であるように思われる・・・ただ単に舞台作品を楽しみたいという観客には、決して向かない。

改定します。

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2006年03月16日

スレイマン・アルバッサーム・シアター『カリラ・ワ・ディムナ・王子たちの鏡』

にしすがも創造舎にて、スレイマン・アルバッサーム・シアターの「カリラ・ワ・ディムナ・王子たちの鏡」を見てまいりました。
東京国際芸術祭での公演として、日本、イギリス、クウェートの国際共同製作による新作として再来日ということ・・・スレイマン・アルバッサームは現在クウェートを拠点に活動する新進気鋭の若手演出家・劇作家ということで、なかなか不思議なお芝居を見せてもらいました。

古典的な風景が漂う舞台に、映像を投影して、重層的な雰囲気の構築していたように感じました。

追記します。

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ヨーロッパ企画『Windows5000』

新宿THEATER/TOPSにて、ヨーロッパ企画の「Windows5000」を見てまいりました。
ヨーロッパ企画といえば、昨年のサマータイムマシーンブルース旋風です・・・舞台と映画を同じ日に立て続けに見るという、ちょっとした個人的イベントで、大変満足な一日を過ごさせていただきました。
あれから半年・・・ヨーロッパ企画の新作は果たして?。

ヨーロッパ企画の作品は、これまでパズル的な要素が肝だなぁと思っていたのですが、本作品はそういうテイストは全く無くなっていて、ツッコミ劇という新しいジャンルのお芝居なんじゃないかと思いました。
舞台上の役者の振る舞いに、いちいちツッコミを入れていくスピーカーの声・・・舞台上でボケとツッコミをするのがそれまでのお芝居であったとするならば、客席から放たれるツッコミはまさに「観客の声」・・・普段舞台を見ながら心の中で叫んでいることを声に出すことを許されているような感覚。

物語は、Windows5000というソフトが発売されている超未来のお話・・・このソフトを使えば、宇宙技術みたいなもので好きな窓の奥をパソコンで覗けるというシステム。
舞台上は、多くの窓によって遮られているのだが、これをマウスでクリックすることで開いて覗くことができるという仕組み。
このパソコンを操作している人間の声が会場にツッコミという形で提供されている。

このギミック的な感覚は、終始シベリア少女鉄道を彷彿とさせます・・・窓という開閉システムが散りばめられており、それを自由に操れる装置・・・そしてそんなこととは全く関係の無いところで生活をする多くの登場人物・・・これらが、ある種のルールのようなものにしたがって振舞い始めると当にシベリア的爆発・・・。
ヨーロッパ企画といえば、私の中でそういうパズル的なルールから物語がスタートする劇団だったこともあり、今回の作品は前提条件が中々に面白いものであっただけに、結末まで特にどんでん返しも無ければ、往年のシチュエーションコメディー的な施策もなく、ただただ変な振る舞いをする役者たちをツッコムだけの物語に、後半は飽きてきましたね。
確かに、会場の笑いの大きさも、時間を経れば経るほど薄くなるという印象で、初めの頃は大変面白かったんですが、舞台が大変長かったということもあって、疲れてきました。

終わらせ方に、一捻りという感じでしたが、エンディングに入る前からオチは明確・・・あの一瞬の為に舞台を片付けようという意気込みは買って出ますが・・・。

同じようなことを考えるなら、シベリア少女鉄道の方が、ネタの作り込みも上なら、やってしまう馬鹿さ加減も数枚上のように思いました。

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2006年03月13日

チェルフィッチュ『三月の5日間』

六本木のSuper Deluxeにて、チェルフィッチュの岸田戯曲賞受賞作「三月の5日間」の再演を見てまいりました。
チェルフィッチュはこれまでに「ティッシュ」と「目的地」を見てきましたが、ティッシュに関してはダンス作品・パフォーマンス作品としての面白さを見出すことは出来たのですが、「目的地」がどうにも私の中で受け入れ難かった。
方法論への言及に終始した前回公演に比べると、今回はその方向性を大きく転換して、物語へとシフトするのが適当のように思える。

何よりもまず述べておかなくてはならないのは、「三月の5日間」という作品の物語としての面白さについてである。
前回公演の評で、手法の使い方に限って文章を書いた・・・しかも、目的地という物語には全く見向きもせずに・・・。
今回の作品は、岸田戯曲賞の名に恥じない(そこまで権威があるかは知らない)傑作だったということだ。
小説化されるに足る文学性を有しているように思うし、村上春樹ぽいなどと言ってしまうお粗末な気もするけど、ひとまず物語が物語としてちゃんと面白かった。
語り口として、物語が物語自身を語るという転倒はチェルフィッチュの手法として確立されたもののようであったが、そういう部分を切り離してもやはり上手い作品だったといえる。
本日のアフタートークでも、身体の使い方にはあまり視点は移らずに、物語の部分に関しての議論が大変充実しており、「新潮」編集長がゲストであったというのもあるのかもしれないが、それは必然であったように感じられた。

それというのもやはり、チェルフィッチュの手法はもはや手法としての確立期を経ており、成熟へと至っているのではないかという指摘が出来る。
前回公演は、私個人の中でチェルフィッチュに触れる機会として初めてであったということもあり、ある種の拒否反応に加えて、それ故に手法へと視線が集中したということはあっただろう。
対すると、今回は手法的な新たなアプローチは無く、以前に一度抗った為に出来た免疫によって、物語へ視線を移して楽しむことができた・・・安易な言い訳をしておこう。

しかしながら、前回公演の評で述べている事を敢えて拾ってきて再利用させてもらえば、「それで良いのかチェルフィッチュ」である。
岸田戯曲賞の権威に抗え!って書いておいて、戯曲にフューチャーされてしまうのは如何なものかと・・・私も物語に感銘してしまったし・・・。
まぁ、結局は演劇であるからには、手法云々は最初だけで決着は戯曲で付けざるを得ないかもしれないけれど・・・。

方法論のチェルフィッチュ対チェルフィッチュの物語という関係でしょうか・・・勝敗はしばらく追いかけてみないとわからなそう。

今回の物語は、イラクが戦争が開戦した日から5日間セックスし続けた男女の心象が平坦な時間感覚と共に描かれていく。
アフタートークでは、ラストシーンの渋谷の街角で脱糞するホームレスの姿に嗚咽する女という風景についての議論がなされていたが、私の中ではそういうヴィジュアル的な場面ではなくて、戦争の処理の仕方が心地良かったし、美しいと思わせるだけの理屈があるように思えた。
戦争が始まったらしいという情報の断片があって、渋谷で5日間限定のセックスをし続け、これが終わるころには戦争は終わっているのだろうという程度の思考が、行為の合間にふっと頭を過ぎる・・・その距離感。
その距離感は、殆ど私たちが感じている戦争との距離感とイコールなのである・・・5日間限定のセックスという滑稽さでオブラートしているが、それは拡張された私たちの日常の凝集であって、そういう時代感覚を物語として仕立て上げた本作品はやはり、現代の文学足るように感じられる。

そういうメインストリームを備えつつ、周囲で面白くて笑いの巻き起こる舞台・・・目的地とはやはり随分違ったもとの言える。
港北ニュータウンの飛散していく印象に比して、戦争と日常へと収斂していく本作品は、やはり物語として物語しているのだ。

しかし、それによって手法は積極的に後退していった・・・チェルフィッチュしてないんじゃない?と疑って掛かりたくなるほど、演劇しているシーンもチラホラ。
物語のウィナーってことで今回は宜しいでしょうか?。

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2006年03月09日

innerchild『PANGEA』

青山円形劇場にて、小手伸也さん率いるinnerchildの公演「PANGEA」を見てまいりました。
AOYAMA FIRST ACTという冠の付いた今回の公演、私の大好きな劇場でインナーチャイルドの作品が見られるということで、これは決して逃せぬぞと心の中で念を押して日々を過ごしてきました。

しかも今回は、初の再演になるということで、これまで多くの新作を作り続けてきたインナーチャイルドが、是非これを再演しよう!という意気込んで選出された作品なんでしょうから、期待は膨らむ一方です。

これまで、「青ゐ鳥」「遙(ニライ)」と見続けてきたインターチャイルドです・・・決して数は多くないので、もう少し早い時期から見始めていれば良かったと思わせる数少ない劇団の中の1つですね(あとは、シベリア少女鉄道とか毛皮族かな)。
私の中で、「青ゐ鳥」が何しろ傑作だったというのもあって、前回公演の「遙(ニライ)」はそれを超えられていなかっただけに今回の作品には、「是非過去の名作で乗り越えて~」という思いが勝手に込められていましたね。

結論からいえば、残念ながら乗り越えることは出来なかったかなという印象でした・・・私が見た先の2回公演にあったような「背後に流れる抗うことの出来ない壮大な物語」にあたる部分が、弱かった。
弱かったという言葉は語弊を含むような気もするので、もっと丁寧に言えば、その壮大な物語を小手伸也の物語へと縫い合わせていく作業が粗かったし、安易にも思えた。

今回の物語は、地球の大陸がまだ1つだった頃の超大陸「パンゲア」に着想を得て、多重人格へと少女の精神が分裂し、それがまた1つに統合されていく過程を描き、少女の脳という「地球」の姿が語られる。
青山円形劇場でやるなら、これしかないというテーマ性を含んだ作品だったので、そういう理由で「PANGEA」だったのかもしれません。
いつも通りに小手伸也の知識と調査の賜物としての壮大な物語とより身近なテーマへと転化された物語が織り成すハーモニーはありました・・・しかしながら、それはイメージを借りて来ただけのものにも思えました。
それは何故かというと、両者の交流が見出せなかったことに尽きるのではないだろうか・・・私がこれまで見てきた作品には、過去と未来という時間軸や、断絶した土地の接続といったリンクによって、作家が描く物語は、歴史や哲学という今という時代からは決して抗うことの出来ない真理という物語に接続されていた。
それは決して、エッセンスを拾ってきたという表面的な部分に尽きるわけではなく、その真理を現代の手で抉ろうとする確たる決意が介在していたのだ。
だからそれはイメージを借りるに留まらずに、人間が直接的・間接的にであれ、歴史の物語や人間とは?という謎へとアクセスしていくという過程が織り込まれなければならなかった訳だ。

しかしながら、今回の物語は人間の内側と外側という接続は描かれてはいたのだが、地球と人間の関係性は殆ど触れられることがなく、パンゲアという大陸が分裂していたという字面を借りてきただけの物語に落ち着いていたのだ。
本作品は、過去に上演された物語であり、それと比較して近年の作品の方が面白いと感じられたのだから、私のインナーチャイルドへの期待を汚すものとは無い得ないけれど、そういう変遷が感じ取れたというのは良い収穫であった。
考えるに、太古の地球と超大陸パンゲアという事実には「人間が無い」からなのではないか、私は良く使う表現なのだが、遺伝子に刻まれている風景には決して入り込んでいない風景なのだ。
であるから、人間との直接的交流は不可能であり、だからこそメタファー的に地球=頭、大地=精神、海=インナーセルフヘルパーという構図を組み上げるに止まらざるを得なかったのだろう。
歴史や哲学・理論は人間が生み出してきたものであるが、超大陸パンゲアは人間の手の決して届かないところの話であり、それ故にそのあまりの壮大さ故に断片すら視る事ができないという状態に陥ってしまった。

そして結果として、ありがちなイメージを抽出してきて組み上げた物語になっており、エンターテイメントでしか無くなっていたのである。

先日拝見した劇団SKグループの「再演A。~キミのなかのボクのこと~」の方が、殆ど同じテーマを、かなり近い描き方で演出していたのだが、作品だけを比較してしまえば、こちらが大人向けだったのに比べれば、インナーチャイルドのパンゲアの対象年齢はより低い。
毎回の作品で、そういう趣はあったが、それを補足する真理が横たわっていたものがあった為、舞台が自重を支えられなくなることは無かったが、今回は危険であった。

というわけで、人間の壮大な物語と接続していく物語こそがインナーチャイルドの本質であると再認識させられた作品となった。
相変わらず映像は素晴らしいが・・・デジタルカメラの映像は見辛かった。

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2006年03月07日

五反田団『ふたりいる景色』

こまばアゴラ劇場にて、五反田団の公演「ふたりいる景色」を見てまいりました。
五反田団の前田司郎さんは、アフタートークを積極的にやっていきたいと考えていらっしゃるようで、わざわざそういう企画を立ち上げたいと言うだけのことはあって、彼のアフタートークは毎度面白い・・・ので、今回も敢えてアフタートークのある回を選んで予約を入れさせていただきました。

はじめに一言で感想を述べさせて頂くとすれば、やはり五反田団は若手小劇場関係では頭1つ抜けて、理論的に考えられて的確に表現されている「ためになるお芝居」を見せてくれているように感じられる。
やはり、端的に言って平田オリザの後釜は前田司郎なのではないかと思わせるだけの、理論とシステムが彼の中にはある。
どうも、同年代の本谷有希子や三浦大輔に比べると純粋に演劇の面白さと理論の伝道師として認められるのだ。

ハッキリ言って、アフタートークで私が感じた幾つかの事柄に関して、その殆どが前田さんが敢えて取り入れて、そして理解して使っていることが明らかになり、やっぱ凄いと思いながらも、書く事ないじゃんと不貞腐れてみたくなる。
つまりはそれだけ、観客が如何に考えるか、如何に感じさせるかをちゃんと考えているし・・・更に言えば、演劇に対して彼が考えていることをどう載せるべきかということがちゃんと分かっているように感じるのだ。
簡単にまとめてしまえば、作家の感性と表現の形、そして観客の処理というプロセスが、きちんと一本の線で綺麗につながっているのだ。
見た人の想像力に任せたいと言いながら、あれだけ不条理の世界を描きつつも、観客が感じ取るイメージにはさほどのズレも無いのではないか・・・それぐらいストレートに、ある意味分かりやすい物語を提示してくれている。
とはいえ、観客に迎合しているわけでもなく、未開の領域を切り開いてはいるのだ・・・そのバランス感覚と頭の良さには感服する。

さて、大変楽しく拝見させていただいた「ふたりいる景色」であったが、これまでの作品とは少し色が変わっているような感覚に終始襲われていた。
それは、タイトルにも明確にされていることなのだが、これまではどうも1人の男の感覚世界に閉じ込められていて、引きこもりの妄想話に近い様相を呈していたのだが、今回の作品は1人の人間ではなくて2人の関係に焦点がシフトしていた気がした。
男はやはり引きこもりで、即身仏になる為にごまと自身の尿を食物として生きているのだが、その周りには彼女と元彼女、更にはごまの精が出入りして、常に2人の光景が提示される。
主人公は男ではあるのだが、徹底的にその男にフューチャーしていくというのではなくて、彼に携わる女たちの姿をフィルターにして男を描くという視点が強調されているのが本作であった。
特に後藤飛鳥演じる彼女との関係は、口数の少ない男の深層を浮き彫りにするための装置としても働いており、2人3脚で物語は組み上げられていたといっても過言ではない。

アフタートークで前田さんも言っていたが、本作品は新しい興味への挑戦としての第1弾であるとのことで、これまでは普遍性という隠れ蓑に隠れて、ある種安全な作品を作っていたが、これからは少し自分自身を物語りに投影していきたいと考えているということで、それ故に人間の関係(今回は特に愛)というアナログな方向にシフトしたような感覚は当に狙い通りの印象を観客に与えることに成功したということなのであろう。
そしてまた、単品の作品としても大変面白い作品だったといえるだろう・・・かつて愛の形を、引きこもりの男の堕落した日常のテキストで形作った作品があったであろうか。

前田司郎の戯曲は、彼自身の言葉の姿を借りつつ、新しいステップを刻み始めたのかもしれない・・・やはり今後も用注目の劇作家である。

後藤飛鳥さんが、いつの間にか五反田団の役者になってました・・・五反田団、やっぱり目が離せません。

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2006年03月03日

北九州芸術劇場×飛ぶ劇場『IRON』

東京芸術劇場小ホール1にて、北九州芸術劇場×飛ぶ劇場の共同制作作品「IRON」(アイアン)を観賞してまいりました。
本作品も東京国際芸術祭のリージョナルシアターシリーズ招待作品として九州から上陸してきております・・・昨年、飛ぶ劇場はリージョナルシアター外の企画としての上演でしたが、今回はリージョナルへ逆戻り。
飛ぶ劇場はアグリーダックリングと並んで、同企画の常連になりつつあります。

今回の作品は、前回公演の「Red Room Radio」と比べると、随分と後味の良い作品、加えて物語らしい物語がしっかりとされていて、同じ作品を上演している劇団とは思えない作風の違いを感じるに至りました。
先の作品では、お笑い部分も多く、そしてまた死や性の問題が露骨に扱われていて、どちらかというとそういう隠れ蓑に隠れて、物語への意識は薄いように感じていただけに、本作品は意外でした。
生きるとか友情、さらには愛なんていう、とてもストレートなキーワードによって構築された本作品は、飛ぶ劇場の良作として再演され続けてきているようです。
ク・ナウカの宮城聰さんの演出で本作品が上演されたことも過去にあるということで、果たしてこれほどまでに純粋な物語をどのように演出したのか?逆に難しいのではという感想を持たずにはいられません。

タイトルの鉄というキーワードは、作品中ではあまり重要ではないように思える・・・チラシには作家の土地の表象として製鉄産業を挙げて、そこから始まって今回の物語の構想を得るに至ったと記されていた。
北朝鮮を髣髴とされる国家で卓球の強化選手として過ごす彼らは、貧困極まる政府や諸外国との関係の中で、多くの軋轢の中で日々を暮らしている。
主人公の板民は、日本という国に憧れ、ただ単純に自由に卓球をする事ができないかと思案して、本国から脱走しようという決意を固める・・・そこに現れる日本から来たジャーナリスト。
彼は無事に国を離れて、日本へと辿り着くことができるのだろうか・・・彼を取り巻く多くの人々を犠牲にして。

物語の中で、この国の伝統芸能としての踊りが披露される。
これは1つの物語の形式を有していて、1人の勇気ある若者と女を食らった龍との戦いの物語なのであるが、そこに鉄鉱石という言葉が登場してくることになるのである。
鉄の石と鉄の意志・・・そんな駄洒落が頭を過ぎったのであるが、すなわち物語の核はこの必死の意思が如何にして働くのかということなのである。
脱出したい男のエゴイズムが、何故そのままの形で施行されなければならないのか、他者を犠牲にしてまで実行されるだけの価値があることだとは私個人的には劇中から感じられなかった。
さらには、物語と並行して描かれる伝統芸能の中で龍を倒す構図と、主人公の板民が国家を相手に行動を起こすこととの間にあまりにも落差があるというか、構図としてのマッチングが殆どされていないことに違和感を覚えた。
男の生き様という言葉で括るには、代償の大きすぎる世界の話で、決してフーテンの寅さんのエゴイズムが成立しない環境である。

つまり、伝統芸能が示す理想と卓球部が置かれている現実との間にある乖離を埋める方向には物語りは進んでいかなかったというのが残念なところである。

高いクオリティーを埋めきれない物語があった・・・壮大な物語の割に小さい人間模様に終始した、そんな感じであった。

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2006年03月02日

シベリア少女鉄道『ここでキスして。』

紀伊国屋サザンシアターにて、シベリア少女鉄道「ここでキスして。」を見てまいりました。
前回公演では、久しぶりに二転三転する作品を見ることができて、一先ずシベリア人気も持ち直したかな?という中での、期待の公演。
作家の土屋亮一さんが、前回公演の終了後あたりのブログで、何か「分かった!」と述べていて、スランプから遂に抜け出したのかもしれません・・・そんな分かった以後の初公演ということで、心機一転の作品が見られるでしょうか?。

今回は、初めの初めから大きなネタ振りから始まりました・・・お、新しい?!と思っていたら、結局普段の前半ネタ振り、後半爆発というスタイルに変わりは無かったですが、考えてみるに今回の設定的には、最初から最後までおんなじシステムで動いていたということになるようです。

面白さとしては、まぁまぁ・・・今回はメタシアターの極地的作品で心地は良い。
ここでキスして~~~~~!!って感じ。

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2006年03月01日

ヤスミン・ゴデール『ストロベリークリームと火薬』

にしすがも創造舎特設劇場にて、イスラエルの振付家ヤスミン・ゴデールの作品「ストロベリークリームと火薬」を鑑賞してまいりました。
東京国際芸術祭2006のプログラムとして招致された本作品は、イスラエルのダンスシーンで語られていなかった政治的・社会的な問題に目を向け、そしてそれらの構図を身体の関係性へと昇華させたものとして、世界に対して大きな衝撃を与え、そして賞賛をもって迎えられたという経緯を有している。
世界各地を巡り、その最終地点として日本でこの作品が上演されること、そして上演されたことに感謝したい・・・イスラエルの国家的傑作、これが日本で上演されていなければ、それは日本という国家の恥にすらなっていたかもしれない。

素の舞台の下手には、イスラエルとパレスチナを区分する検問所を思わせる交通遮断機が配置されており、時折、何の前触れも無く上下を繰り返す。
上手奥では、イスラエルの作曲家バレリがアコースティックギターとフットエフェクトを多用して、ノイジーで緊迫感溢れる、しかしながら時に痺れるほどメロディアスな楽曲を立て続けに演奏していく。
その中で、7名の男女がダンスを踊る。

この「ストロベリークリームと火薬」では、支配者と被支配者の構図が、イスラエルの若者の生活風景の中に織り込まれている。
支配という行為・手段は、様々な関係の正常なプロセスを遮断し、普通の風景の中から非日常を生み出す・・・その情景はまさに「ダンス」という不可解な行為によって、適切に投影されているようにさえ感じられる。
ヤスミン・ゴデールの身体は、人間の内部から沸きあがってくる情感が表面化されているものでは決してなかった・・・どちらかというと外部の事象、人々の身近の事柄や風景、さらにはテキスト化されている物事を、ダンサーたちが織り成す舞台上の風景へと転化していく。
そこにあるのは感情ではなくて、もっと露骨な事実であったり、メッセージだったりするのである。

支配者・被支配者の関係は、ダンサー同士の関係性で表現されている。どういうことかというと、ダンサーは自分の意識によって身体を動かしていくことが少ないのである。
彼らは、他者によって動かされ、他者によって誘発されながら場所を移動していく・・・その風景は一見パズルのような幾何学さを感じさせるほどであった。
一見して、まるでロボットか何かを表現しているのかと思わせるダンスであったが、それは支配・被支配の構図そのままであって、彼らは他者によって喜怒哀楽を生み出されている者たちであるという仕組みが表現されている。
彼らが、内部の感情を表現しているわけではないという印象は、こういう構図から浮かび上がってくる印象ともいえるかもしれない。

外部によって規定される喜怒哀楽は、不意に発生し、不意に終わる・・・そういう断絶したプロセスの風景が、単純なパフォーマンスとしての面白さを含みつつ、社会性すら有しているということが見て取れて、ヤスミン・ゴデールという振付家の深さとしたたかさを思うに至った。
単純に面白く、そして考えさせられるダンス・・・世界が受ける衝撃も決して嘘ではないだろうと納得し、そして個人的な賞賛の拍手を送らせていただいた。会場のそれもまた、賞賛の意図を含んだものだっただろう。

そこはイスラエルか、それともパレスチナか・・・あの遮断機は、境界と境界のある場所を表現しているに過ぎず、そこは決してどちらでもないのだろう。
彼らが感じている他者は、もっと遠くて大きな存在なんじゃないだろうか・・・彼らの生活を全て支配するような、そう例えば神様と呼べるような。
そしてきっと、それは世界であったりアメリカであったりするのではないか?。

私はそう感じた・・・この作品が日本で上演されて、そして見られて良かった。

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