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2005年12月28日

鳳劇団『昭和元禄桃尻姉妹』

新宿はタイニイアリスにて、鳳劇団の「昭和元禄桃尻姉妹」を見てまいりました。
この公演、幾度となく再演を繰り返しているらしい鳳劇団の看板題目・・・というか、これだけの為の劇団という噂もあるらしい作品です。
回数を重ねている公演なだけあって、これまでに幾つかの劇評を読む機会があり、WEBページを見る限りでは果たして面白いのであろうか?と疑いたくなるデザインセンスに辟易していましたけれど、本日は時間も作れ、役者のかぢゅよさんの産休特別興行ということでの最後の桃尻になるかもしれないという情報を聞きつけ、徹夜明けの体を押しての観劇でした。

昭和の風情が漂う内容、携帯電話という今と糸電話という昔が一本に繋がれ、2つの時代の2人の女性の2つの姿が映し出される。
女性2人が高いテンションで飛び回るだけの芝居かと思わせておきながら、怖さを際立たせるふとした瞬間・・・コテコテの笑いをやりきる役者の度量によって積み上げられた地盤が、そのキュッと引き締まる空気によって瓦解させられます。
その拡大された落差に、この「昭和元禄桃尻姉妹」の本質がギッシリと詰め込まれているのを私は見ることが出来ました。

劇場に入ると、その入り口では役者のかぢゅよさんとシルサさんが受付兼売り子となってビールやらワインといった酒類を中心に販促活動を行っています。
その出で立ちは、ハゲかつらに浴衣という様相・・・既に変な雰囲気であります。
劇場前にはのぼりが立ち、演芸一座の地方興行の雰囲気・・・新宿という都会の真ん中に、田舎の片隅の、そして十数年前の匂いが立ち込めていました。
しかしながら、そこに立っているのはハゲかつらの女性が2人、なにやら只ならぬ雰囲気・・・もう既に、少し怖い。

舞台を隠す大幕には、クレヨンで描かれた漫画のキャラクターたち、そのヒドイテイストに気分は沈みながらも、ねじ式の片腕を抑える男の画があることに気が付き、少し安心する。

舞台は、役者2人の’かっぽれ’から始まります・・・お世辞にも美しいとは言い難い太ももを露にしつつの踊りは観客に目を逸らさせながらも、そこに桃尻姉妹の存在を一瞬にして定義させたように思われます。
前半に完全に置いて行かれる観客ではあるが、だからこそシーンが切り替わって役者が下に降りて来ると、そこには姉妹の運命が無音の世界に響き、そこで語られる「もしも、あの戦争が無かったら・・・」とか「耳鳴りがするのはどっちの耳?」といった詩的な台詞に過剰に没入させられていく。

際立たされるのは、過剰な演技のほうではなくて、静謐なる空気だ・・・姉妹の対立とでも言えるかもしれない。

そして、観客が感じる瞬間的な怖さは、そういう姉妹の言葉とか、空気がそう感じさせるというよりは、観客個人が昭和という時代に置き去りにしてきた亡霊の姿を見る思いがするからなのではないだろう。
姉妹が口にする「もしも・・・」の問いかけは、過去という変えられない時間に住む亡霊が、今という時代に生きる外側の自分に投げかけることばなのだ。
内側から発っせられて、人の表面で融解する時の寒気、それがこの芝居の怖さであり、本質のような気がする。

現代の人々が3丁目の夕日を見て、昭和という時代の思い出に浸り、心を和ませるのと時を同じくして、その時代に人が捨て去ってきたものたちも、グズグズと地の底を漂っている。
その噴出し口となったものの1つが、この鳳劇団「昭和元禄桃尻姉妹」と言えるだろう・・・その意味で、今の時代が生み出す必然的芝居なのかもしれない。

決して出来が良い芝居ではない、笑えない人も、性に合わない人もいるだろう・・・万人に進められる良い芝居ではないかもしれないが、私は見れて良かったと思った。
かぢゅよとシルサの怪演もすばらしいが、根底に流れる意思にこそ目を向けてみたい。
産休休暇に入るらしく、今後の再演も定かではないが、不思議な芝居を他の多くの皆さんにも届けてほしい。

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2005年12月18日

くねくねし『プレタとポルテのくねくねオートクチュール』

三軒茶屋はStudio Teater SPARK-1にて、くねくねしの公演「プレタとポルテのくねくねオートクチュール」を拝見してまいりました。
くねくねしは前回の「おみそれテクニク大辞典ろくろっ首ロードくねくね!」という無闇に長いタイトルの公演を見まして、その独特の世界観らしきものにヤラレテしまったのでした・・・詳細はページに書いてありますが、ゲーム的で個々のキャラクターが際立った作品であったとまとめておく。

前回公演の魅惑的な残り香に誘われるままに、今回の公演にも足を運んでしまったのであります。

今回の公演は、タイトルにもあるオートクチュールがテーマでした・・・針と糸で布を縫い上げていく姿がくねくねとしていてくねくねしの舞台テーマと合っていたから選ばれたのではないでしょうか?。
前回公演はくねくねとした道、今回はくねくねとした仕草・・・次回はイヌもの(仮)というタイトルなのできっとイヌの尻尾あたりがテーマなのではと踏んでみる。
ということで、大きなテーマ性も確たる社会性も孕まない、ただただ面白くて笑える不思議世界を形作ってくれるくねくねしです・・・とはいえ、今回の公演は前回のものに比べるとこじんまりとした世界観に覆われて小さくまとまった作品に見えてしまったことは残念であった。
手先の器用なモグラが、モグラ世界のお嫁さん探しにと地上に赴き、人間のお嫁さんを得るために服をオートクチュッて差し上げるという話なのだが、女性と出会って服を作ってあげるという流れが3人の女性それぞれに設けられて、まるで小作品を連作させて作った1本の芝居という構造に思われた。
劇構造がくねくねしの魅力ではなくて、そこに登場してくる登場人物こそがくねくねしの得意とするところのひねくれた人々であって、そういうキャラクター作りの上手さに関しては天下一品といった印象を新たにしたが、何しろ物語の部分の完成度や構成が弱い。

前回公演で述べた、個々人の力量のバランスの悪さという部分は今回は気にならなかった。
役者自体の数が少なかったというのもあるのかも知れない、いや・・・というよりもそれぞれの登場人物が出てくる時間がかなり少なかったと言った方が適切なのではないだろうか。
主人公演じる小田井孝が基本的に終始舞台の上に立ち続け、そこに割り入ってくるその他の役者たち、出てきては笑いを生み出していく彼らだが、どうしても舞台の上にいる時間は短く、薄いものになる。
そうなってくるともはや上手いとか下手とかいうレベルではなくて、舞台・物語への貢献度が必然的に低くなるだけのような気がする。
だから、今回は役者のバランスは決して悪くないように思われたが、それこそは良い結果という訳ではなくて、どちらかといえば問題だったのかもしれないと思うのだ。

前回公演の評で、役者たちが楽しんでいる舞台であり、そのやりたい事しようという雰囲気が良かったと述べたのだが、今回は皆でという部分に弱さがあり、その意味においてもスケールの小さな作品と言えるかもしれない。
何しろ、小さな作品を組み合わせて、同じような物語を繰り返すことによって、さまざまな部分でスケールの縮小を起こしたのだ、それは物理的なサイズだけではなくて、キャラクターの深さにおいてもである。

先ほどから述べているように、物語も興味を惹かれないものになっていたように思う・・・前回の作品だって、決して何かがそこにあった訳ではないけれども、もっと物語の壮大さのような幻惑があってそれはそれで面白かったけれど、今回はそういう幻すら無く、ただ組み上げられたテクストが進んでいくだけのような作品だった。
くねくねしにはもっと、その虚構の中の世界を再現することに一生懸命になってほしい・・・オートクチュールにはそういう世界と呼べるような枠組みが見えなかったのだ。

面白い作品だった・・・期待していた笑いはちゃんとあったから不満ではない、独特な空気もちゃんと持ち合わせていた。
ひねくれているけれど確たる世界観としてそこにあるものを、くねくねしの劇の中に生み出していってほしい、そう願うのでありました。

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発条ト『森下真樹ダンスショウ!!』

こまばアゴラ劇場にて、発条トの「森下真樹ダンスショウ!!」を見に行ってきました。
ダンスショウ!!というタイトルから分かる通りのダンス作品であったわけですが、とはいえ主演の森下真樹さんは今年の夏には、世田谷パブリックシアターで行われたテレーサ・ルドヴィコ演出の「雪の女王」で女優デビューを果たしているということで、台詞のある演劇的な小作品もありまして、Bプログラム全3作品は当にバラエティーに富んだ構成で、終始楽しい時間を過ごさせていただきました。

そうそう、この「Study of Live works 発条ト」ですが、私、ずうっと”ハツジョウト”って呼んでいました・・・全然意味分からんちなんですけど、素敵な名前だなぁって思っていて、何が素敵かって視覚的な「発条ト」という文字の構成がバランスが良い・・・斜め下に向かう線が多い。
そういう字面で付けられたユニット名かと思っていたら、ちゃんと言葉として発条(ばね)って読みがあるのをここ最近知りました・・・ばねかぁ、勉強になりました。

でも、ハツジョウトの方がしっくりくるなぁ・・・個人的で勝手な我が侭ですけど・・・。

●peel slowly and see
ゆっくり剥く、そして見る・・・ということで、バナナが剥かれ、そして食べられるまでの短い時間を濃密に拡張したような内容の作品。
白井剛と森下真樹が、バナナを片手にステージの上を縦横無尽に駆け回るような印象を受けた、それは文字通りに身体が駆けるというよりは、表現する際のアプローチの方法が様々に折り込まれたという方が適切だろう。
まさにそれは”ばね”のような、しかも宛てなど無く床を飛び回るそれのように見える・・・その複雑性を飛び跳ねる身体ではなくて、技法に求めていることが面白さの源泉か。

静かな身体表現のシーンが続いたかと思うと、歌い出したり喧嘩し合ったりで笑いの起きるシーンもあった。
それらはどれもバナナという果物との関係を保ちつつ行われて、どれにもバナナの存在は確認できるのであるが、その中でもやはり一番印象深く見れたのはバナナのバナナ性に最も強く挑戦していた場面であった。
バナナの曲線を表象した曲線の動きの連続は美しかったですね・・・バナナ性の顕著な部分はやはりその形状ですものね、それと人間のしなやかさの極致である美しい円弧の動きがミックスされるのは最もシンプルながら、最も意味のあるものであった。

そうそう、それとこれは全く作品とは離れた個人的な妄想の部類だけど、全体を通して流れているバナナの皮を剥くまでの時間という滑稽さとか、バナナに徹底的に注力されるという異常さに対する内に、バナナってのは幼稚な食べ物で、だからこそこういう作品にした時に安心して見られるという気がする・・・何しろ暴力性が無いから。
そしてまた、その幼稚さは、元を辿れば「何故か猿が好き」みたいなところまで遡って、人間の原始的なところと人間の身体という原点が組み合わされているように見えて来てからは、全てが滑稽さをまとった斬新な作品に見え、終始面白く見てしまった。

コンテンポラリーダンスというんですかね?・・・想像ゲーム的なところが個人的には大変好きであったりします。

●森下ひとり芝居+β
女優・森下真樹さんが前面に出ている作品、卵とセロリ、そして森下真樹を一人三役でこなすパワフルな構成。
作品内容というよりは、女優としての力量に脱帽・・・ダンスと役者という一見畑の違うところの題材ですけど、舞台の上で見せるという事に関しては同じということなのでしょう。
ちゃんと客に見せるということは分かっているし、やはり身体がしっかりしている分、1つ1つの動きが精緻でこの部分にはそんじょそこらの役者さんでは無理な動き。
そこに輪を掛けて台詞の使い方も上手いんですから文句の付けようが無いですね・・・芝居としての内容は薄いですが、役者としての彼女の完成度は高い。
台詞系の役者ではなくて、どうしても身体系なので平凡な芝居では魅力は弱いですが、パフォーマンスに寄った劇団の芝居なんかには出て行かれても成功するような気がしました。

●モリシタアワーヅ
森下さんの妹さんも出てこられて、最後の盛り上げ的な内容・・・アフロの人たちが出てきて、歌って踊って盛り上がってお終いの作品。
それ以外の何でもないであろうけど、まぁ笑ったから良しとしよう!

というわけで、最後のおまけも手伝ってダンス系では長めの2時間の公演・・・ダンス!ダンス!では無くてパフォーマンスっぽく何でもアリな感じが、まとまり感の弱さに尽力していたように思えたけど、観客としては楽しめる作品だった。
最後に森下さんの似顔絵を描いていって下さいということだったので、こまばアゴラの白く塗られた壁にピンクのペンで後ろ姿を書いてやった・・・そしてみかんを1つ頂いた、みかんおいち。

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2005年12月15日

NODA・MAP『贋作・罪と罰』

Bunkamuraシアターコクーンにて、野田地図の第11回公演「贋作・罪と罰」を見てまいりました。
去年の「走れメルス」からほぼちょうど一年、再演が続いて新しい作品が見たいなぁという気持ちもありますが、そこは野田秀樹のこと、再演とは言っても新しい何かを織り込んでくれる筈と期待しての観劇でした。
というのも、初演の「贋作・罪と罰」はビデオで見たことがあるだけですが、大竹しのぶの素晴らしさに感動し、役者とはこうも狂気を身にまとう事ができるものなのであろうかと感嘆した記憶があります。
それだけに、今回の松たか子へは期待と不安があり、その意味では特別の興味をもった作品の再演ということができるかも知れません。

野田秀樹の作品に関しては、役者よりも作品そのものへの評価が常であるだけに、初演版は役者の力量が作品を乗り越えた珍しいものだったとも言えるのではないでしょうか。

さて今回の公演は、コクーンの舞台を取り去っての円形劇場タイプ、両側から観客が挟みこむ「赤鬼タイプ」とでも名付けられるものです。
初演とは全く異なる舞台構成、実際に劇場に赴いてみると舞台上には何の装飾も無く、灰色の素舞台が広がっていました・・・しかしながら、その周りには無数の形状の椅子が並べられ、無地の舞台とそれを見つめる色とりどりの椅子という何とも奇異な情景であったように思いました。

後日追記

そうそう、座席に関してひと言・・・今回は円形タイプということで座席の取り方には難しいところがあったと思います。
普段の芝居なら舞台正面の中盤あたりの席が普通に一番見やすい席であったりしますが、今回は正面がイコール真裏になるシーンが発生するという円形独特の問題があるので一概にそうとは言えないのではないかと思います。
そして、想像するに今回は演出上、幕を使って舞台を切り分ける演出が多用されるので、片方側にいると反対が良く見えないというジレンマがあったのではと思います。
私は中二階のサイド席に座っていて、通常形態の公演なら見にくい席ではあるのですが、今回の公演でいうとかなりの良席ではと考えられます、舞台には近いし、円形の舞台を斜め上から見下ろすので手前も奥も満遍なく見通せます。
手前側は多少見切れますが、基本的にそこは舞台ではなくて出はけ口なので大きな問題は無く、最前列で適度な距離を保ちつつ、舞台全体を見渡すことができるわけです。
数人の友人と共に観劇だったのですが、皆さん見やすい席だったと喜んでくれたので、席を取った甲斐があったというものです。

中二階のサイド席は立ち見の人の席でもあります・・・立ち見ですと多少見切れの部分は大きくなるかもしれませんが、格段に安いことを考えると、もしかするととても良席と言えるかも知れません。
上演時間も2時間、立って見るのも何とかなる時間でしょう・・・金欠学生さんは、狙い目かもしれないですよ。

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2005年12月11日

扉座『アトムへの伝言』

新宿は紀伊國屋ホールにて、劇団扉座の第35回公演「アトムへの伝言」を鑑賞してまいりました。
扉座の公演を観るのは初めてです・・・今回の公演のチラシはかなりインパクトのあるデザインで、手に入れた時点から気になっていました。
それというのも、「アトムへの伝言」というロゴに加えて、黒ぶちメガネのおっさんの満面の笑顔と「愛ある機械造り」という豪快なメッセージ・・・なんとも面白そうなチラシでした。

そしてまた、その満面の笑顔のおじさんの顔はどこかで見たことがある顔・・・さてどこかと思案しているとそれは今年の一大ムーブメントである電車男のテレビドラマ版でネットの住人”阪神男”を演じていた方ではないですか・・・六角精児さんというそうです。
ドラマを全部見た私にとっては、ある意味で重要キャラクターを演じた彼の姿は目に焼き付いております・・・そういう意味でも、ドラマで好演した彼の生の姿をひと目見てみたいという思いもあったわけです。

普段は小劇場中心にお芝居を巡っているので、紀伊国屋のようなお行儀の良い所のお芝居はあまり気が進まないのですけれども、たまにはベテランの域に達している劇団の行儀の良い芝居をみるのも感性のリセットにもなるし、何よりも下手なことを考えずに楽しめることが多いので嫌いではない。
座り心地の良い椅子に深く腰掛けて、ゆったりした気分で消極的に鑑賞するのもストレス発散になるものです・・・(最近研究が忙しいので)。

物語は、ある研究所で開発されたお笑いロボット「カッパ」のお話・・・研究所の研究者は、人々を笑わせるロボットをと言われて研究に励むが、彼らはお笑いが如何なるものか分からずにいた。
そんな折、「全然痛くな~い」というギャグで一世風靡したことのある漫才師ラッパに笑いとはどんなものかを勉強しようと研究所のメンバー揃って彼の元へと訪れる。
過去のラッパの漫才の台詞やタイミングを完璧に入力されたカッパは、すぐさまラッパに気に入られ、ちょうど喧嘩別れした相方の代わりにコンビ結成とトントン拍子で話は進んだのだが・・・カッパにはロボットとして乗り越えられない壁があったのだ。
それは、ロボット三原則と呼ばれるもので、カッパには人を傷つけるツッコミや暴力的な言葉が話せないという機能を付けられていたのだ・・・それでは漫才はできないとラッパは言うが、研究者はそれだけはできないと断り、話は頓挫する。
しかしながら、究極的なお笑いロボットを作ることを命じられていた研究者たちは論議の末に、ロボットからその条件を取り除き、ついにコンビは成立し、ラッパは往年のギャグ「全然痛くなーい」を復活させることを夢見るのだが・・・取り除いた機能が裏目に出て、カッパは事件を起こしてしまう。

処分されることが決定するのだが、ラッパは最後の最後に漫才をさせてくれと懇願、漫才が成立すると共に最後にカッパが破壊されるという状況を使い、世界初のロボットの破壊芸を提案する。
最後のシーンは、ラッパとカッパの漫才シーン、怒涛の勢いで繰り出される笑い・・・そして破壊。

研究者たちは、最後の最後にカッパの芸で笑うことができたのか否か・・・。

斬新な演出、奇怪な表現、台詞やら身体やらの技巧性も無く、ただただ単純に物語としての舞台と、そこにいる登場人物を演じ続ける役者たち。
お行儀の良い物語設定と、分かりやすい展開、そして丁寧な結末。
SF的な要素を配して、テクニカルな物語を装ってはいるけれども、そこにあるのは純粋な人情劇であり、かなり身近なところの話であったりする。
そして、裏返してみるとテレビドラマのような軽薄さを含みこんで、それ自体は楽しんではいるものの、逆のところには意味の薄さに溜息をついている私もいるのだ。

やはり作家性が浮かび上がってこないという点に、その薄さの源があるように思える・・・つまりは万人に受け入れられる代わりに、少数に支持される特異なものが無いということだ。
高校生のお芝居や、大学のサークルで既存台本を使ってのお芝居ということならば、使って大いに楽しめる脚本といえるだろう・・・物語のメッセージは普遍的なものであるし、面白くて、感動的に結末を迎える。
そしてなにより、特殊な方法論を必要としないお行儀のよさ・・・その無地なるキャンバスには何の絵も描いてないし、何を書いても良いのである。

しかしながら、やはりお行儀の良い人間は、面白みに欠けたりする。

批判めいたことを書いてきたが、お芝居としては十分にクオリティー高く、観客の観劇後の雰囲気も良かったように感じられた。
やはり、こういう純粋で無垢な作品が、結局はキャパシティーを埋められて、皆に満足してもらえる芝居なのだなと関心するのだ。

しかしながら、やはり私が求めているものとは違うのだ、なにより観劇後に頭の中に引っかかる何かも無い・・・そして、それを切り開く個人的な楽しみも与えられないのだ。
その時間に、その物語を楽しみ、それが終わると共に、すべてを劇場に置いて現実へと戻っていくような・・・あまりにも喉越しに良すぎる芝居は、それが過ぎると共に、見たことすら忘れてしまいそうになるのだ。
それが悪いわけじゃない、ただし私がこのHPを通じてお勧めしたいものではないというだけのことだ。

役者の六角精児さんは魅力的な方であった・・・彼を見るために劇場に足を運んだのだから、それで満足ではある。
素直に良い脚本であったし、後輩には面白い脚本としてお勧めしようと思う。

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2005年12月10日

パパ・タラフマラ『HEART of GOLD-百年の孤独』

世田谷パブリックシアターにて、パパ・タラフマラの「HEART of GOLD-百年の孤独」を見てまいりました。
ガルシア・マルケスの長編小説「百年の孤独」を原作にして、パパタラの演出家である小池博史さんのイメージを具現化した舞台。
当の小説は読んだことが無くて、読んでいたら読んでいたでまったく別の作品として受け取ることになったんだろうなぁと思います・・・とはいえ、そうすることでより良い作品になったかどうかは定かではない、人は2つの状態を1度に体験することはできないのだから・・・。

とはいえ、原作なんて知らなくても楽しめるのがパパ・タラフマラ・・・なにせ殆ど台詞が無い訳ですから、書を読むように言語処理できる舞台ではありません。
近年の代表作と化しているパパタラ版「三人姉妹」を見て、身体言語の力強さとパパタラのビジュアルに深い衝撃を受け、その時から今回の世田谷パブリックシアターでの公演は見なければならない舞台になっていた・・・それほどのものでした。
とはいえ、その時もチェーホフの「三人姉妹」を知っていたわけでもなく、ただただ3人の女性が動かし続ける身体のみに魅了され、言語の必要性を全く必要としない舞台だった・・・そういう意味では、今回のものとさほど本質は変わっていない。
だからこそ私は、原作を知っていたからといってより楽しめるというものではない・・・という持論にある程度の信頼をおけるのだ。

今回の舞台はどのようなものであったか、物語以外の部分、主にビジュアルや音響に関する部分を簡単にまとめてから、舞台とは別の部分の語らなければならないものを語っていこうと思う。

大道具としての目に見えるメッセージは舞台上には無い、そこにあるのは素舞台と呼ばれるようなただ広い舞台空間・・・ただし、奥まったところが急な坂になっておりその盛り上げられたところの裏側を使うことで役者が出捌けするのに使っていた・・・公演のプロモーション(山口公演)ではそうなっていないので、パブリックシアターの構造上の処置か?。
そして、舞台後方に備えられた壁や機械的に上下させて現れるスクリーンなどに映し出される映像がかなり多用されていた・・・そこで表現されるものは空間の状況説明的なものから表象的なアイテムまで様々であったが、視覚への強烈な刺激にもなるし、広い舞台空間を埋める役割もあったように感じた。

映像というのは、以前の三人姉妹と比較して大きく異なる点であると言える・・・三人姉妹は小さなスタジオにすし詰め状態での観劇だったので身体のダイナミックさというのが拡張される傾向にはあったのだろう。
せたパブはその大きさが身体性を小さくし、逆にパフォーマンス性を拡大しているような気がした・・・それは観客の受容のみならず、作家の出力においてもである。

スタッフワークのクオリティーの良さも魅力の1つである・・・音響から衣装まで、質は高い・・・そしてその中でも小道具の作りの上手さ、そして使いの上手さが極まっているように思う。
扇風機付きバイク、馬の影絵を映し出す手押し車、光るお人形、舞台を横切る機関車・・・人間の身体がクローズアップされる中で、この数多くの小道具のセンスもパパタラを語る1つのキーワードかもしれない。
身体が拡大されると、それと共に人間から切り離されたもの・・・ロボットのような無機的なものが相対化されてやはりこちらも強調される・・・そんな違和感を感じることはできたように思う。

そしてその中でも、やはりお気に入りの蛍光灯の光の多様・・・三人姉妹と同時上演された松島誠さんの「ヲg」で見て以来、蛍光灯照明には光であること以上の意味を見出して止まない私なのです。
今回も使ってましたね・・・舞台が一瞬にして寒気のようなものを帯びるのです、その緊張感が堪りません(個人的な趣味)。

というような舞台背景で、その中で役者が跳んだり跳ねたり、奇声をあげたり歌を歌ったり、言語的な部分は多めだったそうですが、物語は結局大して解らず・・・でもやはり最後まで魅力的な舞台。
中でも・・・下町兄弟さんのラップが映えてましたね(舞台イメージと相俟って)。

そうそう、今日は終焉後に小池さんとUPLINKの誰かのアフタートークがあって、それが面白かった。
インタビュアーの人はインタビュアーとしては酷くて前半はあまり面白く無かったのですが、途中から主催の小池博史さんの舞台芸術に掛ける想いみたいな話が始まってからは楽しかった。
あのシーンはどういう意味であるっていう話は私自身は好かないし、やはり自分で理屈を捏ねるのが楽しかったりする・・・ただやはり、作家がどういう想いで作品を作っているのかという背景は私が考える範疇を超えているので聞きたいと思うところだ。
あまり多くをここで書いても仕方が無いが、大枠としては身体と空間から観客が持ち帰る何かを作りたいということであった・・・それはまさに一観客としての私が大切にしようとしていることであるし、舞台劇術の共時性がもたらすもっとも大きな価値の1つだろう。
しかも、明確な何かではなく、観客一人一人が異なるインスピレーションを得るということが明示化されていた・・・読み返して驚いたのだが、私の三人姉妹のレビューの末にそういうことが書かれていた。
漠然とではあるが、ちゃんと舞台からそういう意図を抜き出していたのだなと当時の自分に感心させられた。

あと面白かったのは、自己満足なんじゃないかというおばさんの質問だった・・・芸術家はそれと寝食を共にするというぐらい離す事のできない問題ではあるが、この難問に小池さんは完璧なまでの模範解答をしたと思った。
私も、今後の創作活動の中で同様のことを聞かれたら、そのまま答えようと思う・・・のでここには敢えて書かないが、会場がその答えの明瞭さに脱帽したという空気を感じられた。
アフタートーク前に会場を後にする方が多かったが、必聴であったと思う・・・今回の作品ではなく、舞台芸術というものの1つの側面が、小池さんの質の高い言葉によって展開され、舞台内容とはまた違ったところで感銘することができました。

パパタラフマラ・・・25年に渡って構想されてきた「百年の孤独」を終え、今度はどんな地平線を目指していくのでしょうか?。
楽しみで仕方ない・・・作品の質以上に、彼らの目指す道というもの自体にである。

舞台芸術を横断的に評論している人は日本には少ないという発言がありました・・・結構横断的な方じゃない?私・・・結構、何でもつまみ食いはしてますよ。

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2005年12月05日

劇団、本谷有希子『無理矢理』

吉祥寺シアターにて、劇団、本谷有希子の第10回公演「無理矢理」を見て参りました。
最近、急激に本谷有希子本人としての露出が多くなっている彼女が主催する劇団の本公演、チケットは早々に売り切れて、チケットは多少のプレミアすら付いているという・・・前回公演は直前でもチケットが買えた記憶があるので、それと比べると世間での認知度、更には期待度がどれ程急に高まっているかということが分かると思います。
そんな彼女のお芝居ですが、私は青山円形劇場で初めて見た再演の「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」で一気に虜になって、私の中で以来欠かさずに見なければならない劇団の1つに加えられたました。
同年代の中では圧倒的な台詞力・構成力・演出力を兼ね備えていると言えるでしょう・・・小説という分野でもかなり高い評価を得ていることから判断しても、観客を騙そうとして騙しているというレベルでは決して無い、演劇の枠を飛び出していく作家の唯一と言っても良いかもしれません。

そんな彼女の今回の新作「無理矢理」はどうであったか?と申しますと、もはや偽者ではない本物のクオリティーが配されており、玄人の仕事を見せつけられた思いです・・・私より2歳年上の人の仕事とは恐ろしい限りです。

物語は、建物を改築し続ける未亡人?サイゴさんのところに部屋を求めて1組の家族が引越して来るところから始まる。
この建物を改築し続ける未亡人という設定は、カリフォルニアにあるウインチェスター邸のエピソードをそのまま借りてきているようである・・・圧巻なのは舞台美術であるが、テレビの特集でその建物を見た時の驚きと気味の悪さを見事に再現している。
吉祥寺シアターという箱の天井の高さや奥行きを見事に手玉に取り、赤く染まる扉だらけの建造物を作り上げていた・・・その緻密で濃密な舞台構造を見るだけでも、もはや小劇場系の芝居の度を越えていることが判断できてしまう。
そして、その完成度の高い舞台に負けない、台詞と物語、構成と演出であったと宣言してしまっても差し支えないだろう・・・前売りチケットは売り切れているが、当日券には余裕があるようだ、確実にテレビ界にも出てくる彼女の舞台、必見と言っておこうと思う。

過去公演の履歴を見ていて思ったのだが、たった10回の公演でここまでの劇団に成長したのも凄いと思うが、タイニイアリス・空間リバティーという小さな劇場が続いた次が青山円形劇場でしかも成功というのは凄いなぁと、つくづく只者ではないと思わされる。

さて話はズレたが、彼女の芝居には、常に生とか死、それを繋ぐものとしての性などといった表現が前傾されている・・・表現上というよりは、精神的な面に関してのグロテスクさというものが本谷有希子の言葉の1つの側面といえるだろう。
今回も、舞台背景から登場人物まで、全てに影があり、その影の連鎖によって物語が進んでいくのですから、一見して暗くてエグイ作品になるのかと思えば、数多く散りばめられる高い質の笑いによって劇場には笑いは絶えることが無く、そのバランスも絶妙という感じである。
そしてまた結末の描き方も美しいエグさという風で、表現されるものは純粋無垢の正反対にも関わらず、その悪意が純なる意思へと昇華される不思議さ、その技法が彼女の中にはあるのです。

その1つの方策としては、自虐思考的な女性が主人公の連作の中では、その精神的な攻めが、何らかの切欠によって改善されるのではなくて、極限まで攻め続けられることで振り切れて、360度回ってO度に戻ってくるような結末の採り方と言えるのではないか。
360度=0度では決して無いのだが、まるで勝手に自己解決してしまったかのような納得が劇場に溢れるのだ・・・それを受容させる演出上の結末作りの上手さというのもあるだろう、劇中のラストに吉本菜穂子が叫ぶ一言はまさにそんな本谷のテクニカルな所作を自己批判する言葉とも言えるだろう。

本谷有希子、クドカンに続く演劇出の作家としてメディア露出していく事は必至だ・・・そんな彼女の感覚がここには散りばめられている・・・それを広い集めるのは観客の喜びといえるだろう。

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2005年12月04日

机上風景『グランデリニア』

王子小劇場に、机上風景の公演「グランデリニア」を見に行っていました・・・前回公演「複雑な愛の記録」のレビューと比較して、「リアルを装い、シリアスを道具して、それこそを娯楽として提供する」という本質は変化していないものの、その内側の部分では多少の変化が(それがブレというレベルなのか、試みとしての結果なのかは分からないものの)があったように感じられました。

「グランデリニア」という公演タイトルは、ヘンリー・ダーガー「非現実の王国で」に登場する極悪国家の名称なんだそうだ・・・そして、当日のパンフレットにも書かれているが、この本の内容は大して重要ではない。
それ以上に、このタイトルすらも意味が無いものと言ってしまっても差し支えないように私には思えた・・・言い訳のような文章が書かれていたが、私には説明過多のように思われたのだ。
ダーガーが何故にそれを描いたのかという疑念から始まって、悪とは如何なるものか、その答えを求めるアプローチであったと述べていて、結論として善と悪のせめぎあいを描くに至ったとされている・・・その表象としての波の音であるとも述べられてしまっていた。

これは少々語り過ぎと言えるであろう・・・言い換えてしまえば、そう考えながら見てくださいと言っているようなものであるし、作家が作品の中で語りきるべき部分をも内包してしまっているのだ。
そして更には、観客が想像する自由をも削っていると言えるだろう、ある意味で楽しみを半減させる行為のようにも思える・・・観客がとるべきポジションをあらかじめ設定され、結末に向かって波の音が、つまり善悪についての常識が変わっていくように促されるのだ。

前回の公演では、超能力者みたいなものが出てきてとSF的な部分を踏まえて、娯楽的な側面を保持していたと感じていたが、今回は娯楽性よりも人間の内側の問題に傾いて、生死を通して思想・概念の部分が入ってきたのである。
この手の作品では、観客者個々の立場というものが物語の進行と共に、不用意に立ち上がってくるものであり、展開する物語と自らの常識とのせめぎあいの面白みというものが1つの観客の楽しみだったりする。
であるからこそ、観客には想像の、思考の自由は多分に与えられるべきだったと思う・・・無かったわけではないが、かなり上演前の情報で方向付けられた気がした。
少なくとも私は、善と悪やら波の音などと軸を置いて芝居を見てしまったのである。

とはいえ、この手の作品だからこそ、前もって丁寧に情報を与えてくれたのではあると思う・・・娯楽性の薄いこれらの作品は、得てして不明瞭に成りがちだからだ。
しかし、作品を見る限りでは、パンフレットが無くても、そこに書いてある程度のことは読み取れたのではないかと考える、それが作品が良かったことと直接結ばれる分けではないが、やはり舞台においても、後半は分かりやすい丁寧な表現が用いられていたように思う。
アフタートークなどを開催して、パンフレットに書かれていることを語ったほうが、効果と評価は数段違ったように思うのだが・・・。

グランデリニア、意味は分からずともとても素敵な音を持っている・・・開演前には、この言葉1つを頼りに物語りに入っていくのも良かったのではないかと思っている。

さて物語であるが、机上風景の今回の物語は、机上空論になっていたように感じた・・・机上の風景という言葉には、机上ではありながら、ある種のリアル性を保持している風景を描こうという立場が見えてくるのだが、今回に限って言えば、風景というよりはリアル性を保障しないところの空論になってしまっていたように感じられた。
リアルを装おうとしながら、全く装えていない、あまりにも非現実な現実が再現されていた・・・海辺のホテルのテラスでの3組の男女と殺人を計略している男という風景は、あまりにも不自然だ。
その不自然さを、不意に助長していたのは他ならぬ波の音であった・・・そこは外に限りなく開かれた場所であるという印象を観客に与えながら、そこでは限りなく感情をむき出しにした大人達がいるのだ。
物語というよりは、そういった背景の不自然さが気になってしまったように思う、ダーガーが属するところのアウトサイダーアートならば、その他者の不在もアリなのかも知れないけれど。

波の音は、時間を刻む象徴と思っていたのだが、ただ刻むだけではなくて、圧縮したり拡張したりとかなり変幻自在なのだなと発見した・・・大きな収穫だった。

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2005年12月03日

青年団『砂と兵隊』

こまばアゴラ劇場にて、青年団第49回本公演「砂と兵隊」を見に行ってまいりました・・・久々に平田オリザの新作公演ということで、どのような作品を世に提示するのかととても期待して劇場へ向かったのでした。

火野葦平という作家の「麦と兵隊」という小説のタイトルを、イラク派兵という語のイメージと照らし合わせて駄洒落化されたタイトルである・・・というようなことをパンフレットの中で平田オリザは明言している。
私は正直にいって、火野葦平という作家も麦と兵隊という作品も知らない人なので、果たして大丈夫であろうかと危惧していたわけであるが、平田オリザが述べているところの杞憂ではない意味で、杞憂に終わったといえるだろう。
どうやら、ずっと行軍していること以外に類似点は無いらしい・・・そして、それこそが麦と兵隊そのものなのではと言えてしまう程に、ずっと行軍しているだけの物語だったのである。

平田オリザの不条理劇とは思いもよらず、斬新な印象を持った・・・青年団の本公演といえば、パブリックなスペースに集まる人々の在り様を丁寧に、且つ徹底的に会話的な台詞に注力して描くという舞台が主だと思いこんでいたのだ。
それに比べると、今回の作品は状況設定からして異質なものだ・・・舞台上に作られた砂の山は砂漠を模して、そこを行く兵隊や旅行客は、只管に下手から上手へと歩みを進め、それと共に舞台空間は視点を切り替えていく。
パブリックな場所における人間の行動を逐一指定していく演出スタイルと比較すると、今回の茫洋とした砂漠の光景は、閉じたスペースの枠を逸脱して、設定され得ない場所を生み出している・・・よって、視覚的な技巧を多分に含む、稀な作品といえるだろう。

その意味では、期待は見事に裏切られ、その上で果たしてどれほど価値ある作品であるかと考察していく。

蒲伏前進を余儀なくされて砂漠を行く軍隊、しかし彼らの状況は決して戦場のそれではなくて、まるで街角での無駄話のような、時間を潰す為の会話であり、平凡な日常の切り抜きのように聞こえてくる・・・ただ彼らがまとっている軍服と砂漠の空気を除いて・・・。
そして、母を捜す家族や新婚旅行のカップル、兵隊の夫を探しているという女・・・彼らが皆そろって、砂漠を下手から上手へと向かいつつ、その中で互いに会話を交わす時の機微が人物を物語っていく。
しかしながら、戦下の砂漠の風景と彼らの姿はあまりにも違和感を持ってそこにいる、皆が皆、緊張感とか真剣さを持ち合わせていなくて、何となくそこにいるのだ。
この違和感こそが、この作品を今現在の日本のスタンスを表象していると思わせる要因であり、イラク派兵の違和感(平田は不条理と言っている)を偽装した砂と兵隊という作品の本質である。

すなわち、不条理の為の不条理ではなく、意図の為の不条理であり、それこそ不条理と呼ぶには痴がましい程の条理が含まれている・・・それこそ、平田オリザらしさは健在といったところか。

しかしながら物語が長すぎる・・・そこは青年団ですから、感情が一気に昇華される瞬間が来ないことは分かっていて、何となく上手くまとめてくる幕引きはそれはそれで好きなのですが、今回はその何となくまとめようとする部分が多くて、正直何時終わるのか不安になりながら見ていた節がある。
というのも、終わりかなと思うシーンが幾つもあって、それでも続く物語に何度もツッコミを入れていたのである・・・とはいえ、やはり本当の結末は素晴らしくて、最初の兵隊のシーンが繰り返され、微妙に変化した台詞なんかは、永遠に続く砂漠の幻を観客に見せ付けるには十分な力を秘めていた。

その永遠に続くかのような錯覚を、観客に与える為の長い芝居であったのかも知れなくて、それこそ観客も砂漠を行軍しているような当ての無さを感じることは出来ていたともいえる。
しかしながら、永遠に続くことの可笑しみと気だるさは別ものであり、舞台中盤は砂漠を彷徨う喪失感のほうが強かったように思う・・・それこそも狙いだとすればもう言う言葉は無い訳であるが・・・。

長い物語だった・・・唯一のテーマとも言える行軍と、秀逸さとも言える始めのシーンの蜃気楼、その2つを見せるための舞台にしては冗長だった。
夫を探し続ける女などは不必要ではなかったか、彼女を切り捨てるだけで完成度は高くなるような気がしたが・・・不条理の象徴的存在ではあったが、不用意にその力が強すぎたので。

それと、青年団の役者には今回の作品は荷が重かったのだろうか・・・言葉が少し歯に浮いていた。

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