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2005年11月28日

12月の小劇場系注目公演スケジュール

11月18日~12月4日
青年団『砂と兵隊』atこまばアゴラ劇場
http://www.seinendan.org/

11月26日~12月6日
流山児★事務所『SMOKE』atザ・スズナリ
http://www.ryuzanji.com/

11月28日~12月6日
reset-N『DUST』at bar drop
http://www.reset-n.org/jp/index.html

11月30日~12月5日
机上風景『グランデリニア』at王子小劇場
http://www15.ocn.ne.jp/~kijou/

12月1日~5日
ラブリーヨーヨー『Mother』at駅前劇場
http://www.lovely-yoyo.com/

12月2日~11日
扉座『アトムへの伝言』at紀伊國屋ホール
http://www.tobiraza.co.jp/

12月3日・4日・10日~12日
東京死錠『本物』atGallery Cafe PIGA
http://specters.net/deathlock/

12月3日~12日
劇団、本谷有希子『無理矢理』at吉祥寺シアター
http://www.motoyayukiko.com/index.shtml

12月7日~11日
劇団男女くん『漂流性教育』atサンモールスタジオ
http://f-sabba.com/

12月7日~11日
パパ・タラフマラ『HEART of GOLDー百年の孤独』at世田谷パブリックシアター
http://www.pappa-tara.com/pappa_hp/1/pappa.html

12月8日~18日
発条ト『森下真樹ダンスショウ!!』atこまばアゴラ劇場
http://baneto.topolog.jp/

12月15日~18日
石原正一ショー『十三人姉妹』atザムザ阿佐谷
http://www.k3.dion.ne.jp/~halashow/

12月15日~18日
くねくねし『プレタとポルテのくねくねオートクチュール』atスパーク1
http://www.kunekuneshi.com/

12月16日~25日
青年団若手公演 『北限の猿』atアトリエ春風舎
http://www.komaba-agora.com/line_up/2005_12/hokugen_no_saru.html

12月22日~25日
劇団上田『極上の韻』atサンモールスタジオ
http://my-bb.com/ueda/

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2005年11月27日

ブラジル『おしっこのはなし』

サンモールスタジオにて、劇団ブラジルの公演「おしっこのはなし」を見て参りました。
ブラジルの公演は前々回の王子小劇場での「美しい人妻」以来・・・今回は、以前とは大分表現技法が変わったという印象を持ちました。

「美しい人妻」の時には、パワフル且つ豊かに舞台上を役者が動き回り、そこから生まれる物語における速さというものがあったように感じ、それこそがブラジルの技法と見たのですが、その部分が今回は影を潜めて、対して物語・・・というよりも言葉に重点が置かれたのでは思いました。
それがどこまで功を奏していたかと問われると、最初と最後にはその言葉の魔力(主におしっこという語)が舞台上に独特の緊張と違和感を生み出す事に成功はしているように感じたが、中盤では言葉の力弱く、スピード感に乏しいシーンが続き、結果的に魅力の薄い舞台となっていたように思う。

1つの問題点としては、舞台上に設置され動くことの無いベッドと、そこで余命3ヶ月の命を過ごす女性という構図があったように感じる・・・その場所という1点を中心にして物語が進むが故に、役者の動線が分断され、上手対下手という構図が常となってしまっており、視覚的にも変化の乏しさを持ってしまったような。
とはいえ、これらはやはり無難な部分の話であって、本質は全然違うところにあるのだろう・・・それが今回の作品の致命傷であり、舞台構造などは傷口に塗られる塩ぐらいの意味合いだと思う。

さてでは、本質的な問題点はどこか・・・それはやはり脚本なのだろう。
まず、何しろ登場人物が多い、それぞれに丁寧なエピソードを持たせる部分なんかは前回に見た作品でも同様の方法論で行われていて、関心させられた部分ではあったのだが、今回はそれらが入り乱れてごちゃごちゃになって力技で昇華させられるという類では無かっただけに、広げた風呂敷の畳み方に困ったのではないかと感じました。
感情移入をする間も無く流れていく前作に比べて、今回のものはゆったりと進む病院の中と死への着実な一歩という時間の中での物語であっただけに、感情を移入させる余地は多分にありながらそれを観客にさせない壁があったのです。
多くの登場人物がいて、その感情を誰に向けるべきかと考えた時に、普通であれば主人公であり死を受け入れて残りの時間を過ごす女の子に向けて当然なのですが、何しろ死を受け入れつつ、笑顔をこぼし、官能小説を書きながら、おしっこを飲みたいという彼女のキャラクターを観客が心の中で受け入れるには難があります。
その難を取り除いてこその演劇であり、キャラクターづくりなのではと思いますが、彼女の特異さのようなところが物語のメインに据えられ、それに振り回される周りの人々という構図は更に分を悪くしたのかもしれないですね・・・彼女の空を掴む様な掴みどころの無さを演出しているのも壁を一層高くしたのだろう。

笑いの部分は以前より薄めのような気がしまして、より物語に注力されたように感じました・・・とはいえ、「美しい人妻」であっても物語が無かった分けではなく、ちゃんとした物語が用意されている方でしたよね。
そこには大きな違いがある・・・いろいろな女が出てきて愛だの恋だの叫ぶポジティブな作品に対して、死と涙が行き交うネガティブな作品だったということもできるだろう。
しかし、それよりも明確な違いといえるのは、人間らしからぬ人間がキャラクター設定されているということだろう・・・主人公の女の子は死の間際に好きな人のおしっこが飲みたいと言い、死に際の女の子の官能小説に情熱を燃やし、記憶喪失を装う男、看護婦らしからぬ看護婦・・・。
ブラジルは、もう少し等身大の人間を使っていたように思うのだが・・・2回目の鑑賞なので大きな声では言えないが、キャラ作りが変わった故にそこから立ち上がる物語すらも変質していまったのではないかそんな気がしてくる。

その問題が全体へと波及し、さまざまな弊害を生んだと言えるだろう・・・それらが弊害でなくなるように今度進んでいくのも良いと思うが、それよりはもっと等身大の人間たちの性とか生の問題をクリアにしていく方がお得意なのではないかと勘繰ってしまう。
それぐらい今回の芝居は、何を道具として何を言いたいのか分からない作品に見えた・・・何もかもが不完全なのだ、そんな残念な芝居を見てしまった後だとこういう意見にもなってしまうだろう。
以前に見た「美しい人妻」が良作だっただけに、今回の作品はイタダケナイ・・・いや、イタダカナイ。

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2005年11月18日

KARA COMPLEX『調教師』

Bunkamuraシアターコクーンにて、KARA COMPLEX「調教師」を見てまいりました。
まねきねこさんのサイトによると「同名小説に始まり、唐組公演・透明人間(90)、水中花(01)と名を変え、変遷してきた作品」なんだそうです・・・唐十郎のお芝居は今回で2回目、前回は神社境内でのテント公演でゴザに座っての苦痛芝居。
とはいえ、言葉の洪水&水の飛沫に興奮し、唐十郎のパラフルな演技に酔いしれた記憶があります。

さてさて、今回は観劇環境としてはシアターコクーンというかなり快適な場所での唐十郎・・・そういう環境で味わう唐の台詞の数々は、果たしてどういう風に耳に届くのでありましょうか?。

結果は、やっぱり唐の本はすごいなぁっていう感想、そしてよくわかんないけど、感動する演出でした。
南河内万歳一座のお芝居は観たことが無くて、座長の内藤裕敬のスタイルというものが分からないので、今回の演出に関しても特に演出レベルで内藤さんの思惑がどのように入り込んでいて、それが唐十郎の思惑をどう乗り越えているかが分からなかった。
つまり、今回の作品は、私の中では唐十郎の脚本・そして唐十郎の演出として消化されている部分が強い、それは演出に関してのあまりの違和感の無さがそう感じさせるのだろうと思われる。

前に一度だけ見た唐組公演と比較しても、やはり舞台環境・観劇環境の改善は大幅に感じられたものの、大胆な舞台装置の使い方とか水という表象、そして大味な役者の演技などなど、舞台内部の物事に関しては大きな変化は見出すことが出来ず。
それは、もはや唐組の公演と言い切ってしまっても過言ではない・・・私の中にある唐組のイメージを覆さない限りにおいて。

さてさて物語内部に入っていきましょう・・・全くもって心には届いてこない唐十郎の生み出す言葉の数々が、詩情となって目の前に異質の世界を作り上げていきます。
これもまた1つの言葉の魔力といえるものでしょう・・・国語のテストで幾つかの言葉の断片を与えられて、それらを組み合わせて1つの文章を作っていくような、唐のテクストを受容するために必要ななのは、ポジティブな想像性の発露とでも言いましょうか?・・・つまりは、頑張って理解しようとするということです。
その結果に見えてくるものが本質ではなくて、その過程にある脳みその過剰な処理こそが、観客の脳内にドーパミンを発生させ、それこそが舞台上の熱と結びついていく。

面白いなぁと思いながら見るという、本末転倒な体験構造といえるのかもしれないけれど。

この度は水を効果的に用いていて、特に、詩的な情景を徹底的に詩へと、そして死へと追い込む為の装置として一度落ちたら上がってこない水槽は完璧なまでにその役割を担っていたと思う。
それは、舞台から切り離しても十分に存在意義を持ちえるほどの美しすぎる表現であった・・・美しき少女モモ役の黒木メイサが水の中に消え、それを追うようにして保険屋の萩原聖人が底に沈むわけだが、その瞬間に煌く内側からの光が、水の魅惑の力と死のイメージを美しく昇華させ、舞台の結として十分過ぎる効果を観客に刻み込んだ。

唐の使う水の力を、今更ながらに確信させられたといえるだろう。

さてさて、演出やら言葉やらに注力して書いてきましたが、それというのも役者の力があまり魅力的に出てない舞台だったので、どうしてもこんな内容に・・・。
萩原聖人さんなんかは適役な感じでしたけど、やはり言葉の魅力には勝ててない感じ・・・そもそもがそういう芝居で、唐組の魅力って結局唐十郎と雰囲気だったりするんじゃないかなと。
なんで、有名人を使うってのはあんまり魅力にはならないんだろうな・・・結局、と思います。

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2005年11月16日

小指値『俺は人間』

新宿タイニイアリスにて、劇団小指値の第3回公演「俺は人間」を見てまいりました。
前回公演では、クナウカのムーバーとスピーカーの関係を髣髴とさせる様な・・・というのは大仰なような気もしますが、動き続ける役者と台本を片手に喋り続ける語り部という構成で不思議、且つ大胆な舞台を見せて頂きました。
さてさて、多摩美術大学から飛び出した劇団の第3回公演・・・果たして。

今回は、その「配役として分離する構成」を排除して、至って普通の舞台に・・・しかしながら、ダンス寄りな身体とそこから切り離された言葉という独特な演出。
細部から全体までが過剰に動き、そして感情や意味から遠く感じられる役者の体・・・そこに被さってくる人間とロボット、そしてクローン人間の恋愛から見えてくるメッセージ。
荒削りで決して上手くは無いダンスや演技ではあるが、独特なポジションを見つけてやりきっているのは評価に値する。

そして、どこと無くチェルフィッチュの路線を見出すこともできる・・・そんな舞台だった。

あらすじを当日パンフレットから引用してみる・・・「西暦2080年、若者は渋谷に集まり、恋心を演じる完璧な遊びに興じた。なぜその遊びをしなければならないのか、誰にもわからない。ひたすらに続ける手段がある限り、彼らはその遊びを続けている。」

大変アート性の強い舞台だとは思う・・・舞台上には宮崎駿のアニメ「耳をすませば」のキャラクターの顔を構成した巨大なオブジェ、コントラストの強い衣装に始まり、奇怪な身体表現や空間構成も、視覚表現に傾倒した芸術性の表れと一言でまとめる事も可能のように思える。
というよりも、簡単に言い包めてしまうならばその一言に尽きると思うし、美大出身の劇団ということから考えても、そう言ってしまう事が早いのだろうと感じる。

しかしながら、そういう言葉だけでは説明できないものが実は舞台にはあって、それが上記で引用した「あらすじ」であったりするんだろう。
「表現の背後」と言えるであろうもの、例えば感性とか思想、理想から妄想、歴史や身の回り・・・そこに収まるべきものは多々あるだろうし、それによって表現の前後関係が補完し合うとも言える。
小指値の舞台から見えてくる表現の前の部分には、特異な身体表現から誇張されたキャラクターや発声があるのだが、その裏の部分にあると思われる物語にも関心を向けたいと思うのだ。

表現の前後というものがあると仮定して、その前後がどれほど明瞭に密着しているのか、それとも互いが見えないほどに発散しているかは1つの視点として芸術性の論点だとは思うが、今回の公演に関していえば、両者の結びつきのようなものは強く意識する必要はないと感じている。
だからこそ、前と後ろを切り離して語ることができるあろうし、一見繋がりが強い作品のように錯覚しそうになるが、それによって物語の部分を見逃すのは勿体無いように思う。

前回公演を見ている私からすると、2つの公演に通底するメッセージは明確なように思う・・・2つの物語に登場するテクノというロボット、渋谷という町もあったのではないだろうか?。
ロボットやアンドロイド、クローン・・・それと人間という登場人物、彼らによって描かれるのは「愛」の形だ。
しかも、かなり原始的な部分での「愛」やら「恋」の形である・・・そのようなものが極端に形式的になってしまったが故に、原理に近づき、そしてその結果として、ロボットやクローンという作り上げられた道具によって代替できるものへと変質してしまったのである。
というような、かなり全うで筋の通った物語が敷かれており、それらは時代感覚としても実のところ普段から感じているそれなのかも知れないと、納得させるだけの感覚にも従っているといえるだろう。

前回公演の物語を、加筆修正による実質的な再演に近い形での作品だったのかもしれない・・・それぐらい私はそこに同じメッセージを見出したと言える。
ただし、それは焼き直しなどではなく、さらに洗練された方法へのシフトであったと認めることができる・・・それは演出上での正攻法の踏襲とか、より如実な人物関係な表現にも見て取れる。
しかしながら、それ以上に表現上のテクニックや観客への説明的表現の充実にも見出せるだろう、例えば「耳をすませば」の台詞を踏襲する行為は、形式化された愛情表現をそのままに踏襲しているという隠喩だろう。
そして、カーテンコールで猿真似を終始し続ける役者達・・・2080年という原始回帰した未来像、極端に形式された恋愛の形、そしてそれを演じているのは実は猿だった。

なんて素敵なカーテンコールだっただろうか・・・「人間が演じる素敵な恋物語」をシフトさせて、「猿が演じる人間の恋物語」と化している。
それによって見えてくるメッセージは、表現の背景として確たる裏側として大変立派なものだったように思う・・・斬新な見た目とは対照的に、濃密なテーマだったのではないだろうか。

表現の前後関係が不明瞭な部分が、今時点での唯一明瞭な問題なのではないだろうか?・・・徐々にリンクさせる方向に進むのか、このままリンクの弱さをパワーで乗りこなす方向に進むのかは分からないのだが、それにしては役者の弱さが気になる。
物語るにも演じ続けるにしても、もっと魅力ある役者が欲しいところだ・・・天野史朗さんは強力な武器だが、他のメンバーにも更に強い上手さが欲しい。

方向性とそれに伴う役者のレベルアップによっては、面白い劇団の1つになり得る・・・そんな素質は感じたのであった。

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2005年11月12日

ポタライブ『かわあそび』

散歩しながら街を知る、そこに折り込まれる物語の破片・・・ポタライブの今回の作品は中央線沿いの武蔵小金井の駅に集合しての「かわあそび」でした。
私の大学は現在学園祭の只中なのですが、後輩のお手伝いもせずに街をブラブラで申し訳無いのですが、許していただきたい・・・それというのも今回の作品は「武蔵小金井」を舞台にした作品、数年間小金井の大学に通い続けている身の上の私としては、見なければならない作品なのでした。

街への恩返し・・・そんな意味を込めまして・・・。

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武蔵小金井駅前の空模様です・・・秋晴れというのでしょうか?散歩には大変良いお天気、風が強めで寒いということを除けば・・・。
暖かめの格好は必要かもしれません、幾ら天気が良いと言っても季節は秋・・・お昼を過ぎれば益々寒くなっていきます。
中央線の高架化工事の様子・・・大きなクレーンが空に突き刺さらんばかり。

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駅の南側商店街にポッカリと出来た公園への入り口・・・路地の薄暗さと空の明るさのコントラストが強烈。

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私達の目の前に現れた消えかけた横断歩道・・・果たしてその意味とは・・・。

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今回の参加者の皆さん、私達は今、ある「流れ」に沿って道路を歩いているのです。
小金井に5年以上お世話になっていたのですが、全然知りませんでした・・・その「流れ」。

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夕日が綺麗!それだけ。

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石を渡って川の向こう側へ・・・子供の頃はこれだけで楽しかった。

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長く続く道を、トボトボと歩く2時間・・・前回の吉祥寺とは違ってかなりの距離を歩いたようです。
面白かったから全然気に懸からなかったけど、帰りはバスを使って駅まで帰るという距離・・・たった3駅でしたけど小金井のバスに乗ったのなんて大学に来た最初の日以来かも・・・。

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今日は、主催の方のお引越しということで、終了後に自宅兼稽古場兼アトリエにご招待して頂きまして、みんなで引越しそばを食べました。
お引越しという事でポタライブ以外の方も続々と来られて、芸術関係のお話をしました。
写真は、同居人の芸術家さんが壁に書かれた絵です・・・ボールペンみたいなので描いた線画、様々なところの風景なんだそうです、いろんな思い出が電線で繋がれていました、綺麗なお部屋。

ポタライブ「かわあそび」は明日が最終回・・・まだ人数には余裕があるということなので是非参加してみて下さい・・・小金井の素晴らしさが伝わります。

後日追記予定。

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2005年11月11日

パラドックス定数『大正八年 永田町』

王子小劇場にて、パラドックス定数の「大正八年 永田町」を鑑賞。
パラドックス定数という劇団名は何とも心を惹く素敵なネーミングだと思う、自分が理系人間だからなのかも知れないが、こういう数学や化学などの言葉は理知的な印象を与えるし、深遠なる物語と巧みな構成美を髣髴とさせる・・・数学が好きな人間は、大抵この辺りの美しくあるものを知っているものだ。

逆説定数・・・意味は分からないが、「個人と社会の相克」という劇団のテーマから俯瞰すれば、それら2つを同時に成り立たせうる概念=定数とでも言うのだろうか?、とはいえきっと音の響きが良いからだと思う、パラドックス定数・・・アインシュタイン辺りが叫びそうな字面だ。

劇団名を背負って恥の無い、深い物語、そうして演出における多々の構成上の美しさ・・・永田町というタイトルから果たしてどんな作品なのかと想像していたのですが、まさか地下鉄の話だとは思いもよらず(地下鉄の話ではない・・・)、着眼点の面白さとそれを物語に仕上げるペンの力に感心しながらの観劇になりました。
社会派劇団ということらしいのですが、今回の物語っていうのはどこまでが現実を再現していて、どこからを物語として嘘を入れ込んだのかが全然分かりませんでした・・・というか全てが作り物なのではと感じました・・・本当に社会派なのかな?、言わば社会派的なような。
それというのも、あまりにも話が上手く出来ていて、国会議事堂の設計コンペから地下鉄の工事の話し、そこに政治から軍部までが絡んできて・・・という具合に次から次へと設計士という切り口から人々を巻き込んで物語が大きくなっていくのですが、その過程があまりにも観客として心地が良すぎるのだ。

映画でもドキュメント性が強くなると物語はつまらなくなると決め付けている私ですが、今回の物語はそういう物語の部分でも弱さを感じさせる事無く、事実は小説より奇なりっていうのは嘘だと信じている私に、もしこの話が事実なら土下座する!ぐらいの気持ちを抱かせてくれたのです。
国会議事堂の設計者の名前は4人あるというのは事実なのかも知れないけれど、今回の物語はそういう謎から発した創作であり、社会派っぽく社会を切り開いているように偽装した作品なのである。

プロジェクトXが取り入れた過剰演出などではなく、プロジェクトXそのものが作り物だったそんな感じだろうか?・・・観客は楽しければそれで良い、嘘など幾らでも付けば良い。

さてさて、パラドックス定数の素晴らしさは過剰演出を一切廃して、薄暗く椅子が並べられただけの空間と必要最小限の照明効果、音響・・・紺の背広に身を固めた男達だけが交差する舞台。
彼らの戦いの道具は「言葉」だけと言っても過言ではない、濃密で力強く、知らないはずの当時を思い起こさせるだけの誠実さを持って個人間、そして社会との葛藤が描かれる・・・そこにはリアリティーとは違う、信じさせるだけの熱意のようなものがあった気がする。

国会議事堂、地下鉄、設計者達・・・かつてこれらにスポットを当てた演劇があっただろうか?(あったかも知れない・・・)、今回はこのような日の当たらないテーマを選んできたという時点で75%成功したと言っても良いかもしれない、それぐらい私の中では興味深く見れてしまった。
そういう日の当たらないもの達を描く為に、これまた暗くカビ臭いようなどんよりした雰囲気を照明や硬質な椅子を数多く並べる事で達成していたようにも思う。
そしてまた、役者達の息の使い方、口篭もったようなハキハキとしない声・・・加えてそれを吐き出す身体が背広によって閉ざされている・・・内に力強い意志を閉じ込めつつ、社会や政治に振り回される人間の姿を閉じ込めたままに描き切るという舞台、爆発させない部分が社会派ぽく見せてくれる。

男だけの舞台、役者の人々も達者な人が多かったと思う・・・照明も、舞台も、音響もない舞台を魅力的にしてくれるだけのそれがあったと感じられた。
チケットも良かった・・・切符・・・。

欲を言えば、舞台の爆発が無いのは問題無いにしても、感情的にもう一歩踏み込んで欲しかった・・・オープニングでは鳥肌立ったけど、終わりには無かったのが残念。
しかし、言葉が面白すぎる・・・作家としての力量は計り知れない、きっと劇団を飛び出しての活躍がきっとあるだろう、才能を見逃したくは無い。

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2005年11月05日

カムカムミニキーナ『越前牛乳』

新宿はシアターアプルにて、カムカムミニキーナの15周年記念公演「越前牛乳」を観にいってきました。
当初は鑑賞予定には入ってなかったのですが、WEBでの面白いという評判に加えて、昨日劇場でたまたま顔を合わせた人にカムカムの面白さについて伝授を受け、「ならば今回は見るべきだな!!」と自分に結論させて急遽の鑑賞。

前回公演で苦手意識を持ったカムカムだったのですが、蓋を開けてみれば素直に面白かった・・・作・演出の松村武とテレビでお馴染み八嶋智人の笑いの掛け合いは素晴らしい。
アドリブ的なネタで笑いを取るのをやりすぎると物語が演劇を保てなくなる気がして、バランスが大切とは思っているのですが、今回のカムカムに関しては75%はその手のネタだったんじゃないかな?。
もうお芝居が面白いというよりは村松と八嶋を中心に面白いという舞台、面白いがなんか幻惑されている気分にも陥りつつ・・・とはいえ、この舞台が良かったと思えるのは、やはり再演を繰り返している完成度の高い作品ということで終盤での物語の尻拭いが大変に上手い。
野田秀樹を彷彿とさせる言葉遊びで物語を辻褄合わせていく過程はなかなかに心地よい・・・カムカムと言葉遊びというフレーズが私の中で繋がったのでした。

時代は戦国、牧場で平和に暮らしていた少女ハイジに牛のドナドナ・・・しかしながら戦火はそんな平和だったところにも及んで来て、少女の親代わりだったお祖父さんは死んでしまったのである。
死んだお祖父さんの声を聞いて1人と1匹は市場へ行く事に、かけがえの無いものとかけがえの無い子牛のドナドナを売りさばこうとするのだが・・・ドナドナを買いたいという越前屋と越後屋の間でハイジの心は揺れ動く。

1人が何役もこなし、多様な登場人物たちが折り重なって紡がれていく大河ドラマ・・・強引に次ぐ強引さで広がった物語を収束させていく・・・野田秀樹と同様に、言葉遊びで言葉が繋がればそれはまさに物語が繋がったということなのだ!という主張だ。
野田を彷彿とさせながら、構成されていく物語、言葉遊びの出来に関してのみ言えば上手く繋げきったと評価するし楽しめた・・・とはいえ、その他の部分では弱さを感じざるを得なかった。
シアターアプルという横に長い舞台、登場人物を多く使った場合にはそれなりに空間を埋めることは出来たにしても、終盤では数で押し切る事も出来ず・・・照明効果や舞台演出でもそれを埋める事が出来ていなかった気がした。

演出の弱さが目立った・・・特に舞台を如何に使うかという部分、野田との決定的な差をここに見た気がする。

その意味でカムカムの最大の魅力を語るならば、村松と八嶋の延々と続くようなネタ重ね、または罵り合いとでも言うか・・・舞台の上にいるのは役では無く、役者の2人であると言えるだろう。
その上で物語的な部分に置いては、言葉遊びと言えるだろう・・・つまり、総合芸術としての舞台の良さを魅力とするのではなくて、「言葉」の面白みに注力した演劇・・・そんな言い方ができるのではないだろうか?。

言葉の緩い面から硬質な面まで、折り重なる言葉のレイヤーを飛び回る舞台、カムカムを今回はそう定義してみる事にした。

八嶋の面白さは必見に値する・・・1人舞台、そういっても言い過ぎではない気がする。
開場から巻き起こる拍手の数々もその大部分は彼によるものだったと付け加えておく。

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チェルフィッチュ『目的地』

こまばアゴラ劇場にチェルフィッチュの公演「目的地」を観にいってまいりました。
主催の岡田利規さんが岸田戯曲賞を受賞して、以来始めての東京公演・・・先日、ダンスクロッシングで短篇の「ティッシュ」は見させてもらったのですが、実は本公演は初めて・・・。

労苦の終わりの頃には存在を知っていたんですけど、横浜っていうのはとっても遠くて・・・という言い訳をしておきまして・・・。

今回の物語は、「港北ニュータウン」というキーワードを軸に、子供が体の中にいる女達とそれと共にある男達、そしてその狭間に生きる猫、それぞれの視点で描かれる他愛の無い日常のように見える情景。
あまりにも淡々とした日々を、淡々とした言葉と淡々とした振る舞い、そして淡々としたテロップによって描き出していく・・・そこにはハッキリ言って物語と呼べるものは無い、あるのは言葉と振る舞い、そしてやはりテロップ。

語られるものごとの総集合を「物語」とするならば、それは「港北ニュータウン」という言葉の魔力によって1つの筋のようなものを浮かび上がらせていると言える・・・それは幻の如くあるもので決して騙されてはならない。
物語自身が「これを最後に終わりにします」などという言葉を発することなど無いのだ・・・物語は常に物を語るばかりであって、己について語ることは触れてはいけない秘部のようなものだ。
メタやメタメタなんていう言葉で表されるそれらの方法も、既に使い古されたといえる領域で、もしその領域で戦っている文章があったとしても、それは目新しさではなく如何に徹底的にトリッキーにそれを追求するかというところに落ち着いていて、もはやその意味ではメタなどというのもおこがましいというのが現状だと思う。

話を元に戻して・・・「目的地」の物語はまるで擬人化されているような、物語が1人の主体として見聞きした状況を登場人物の口を借りて伝聞形式に発しているような・・・そして物語として独り立ち出来ない物語君はその本質を目眩ます為に観客を騙そうと試みている。
観客は騙されてはならない、物語の無い物語君の言葉にも・・・そして何よりチェルフィッチュの巧妙な論法とそれを取り巻く現状にである。

チェルフィッチュの舞台はエンターテイメントとしての演劇ではない、敢えて括るならばアート性の強い舞台芸術だと思う・・・しかも、視覚的にではなくて、手法と書いて感性とルビを振るような芸術だ。
手法が前景化されている、チェルフィッチュの舞台は方法論の実験場といえるだろう・・・ノイジーと称される身体性や超口語と表される台詞、こういう独特なキーワードが手法に冠せられていることからも上記のことは明らかだ。

WEBを散見するに面白いという評価が多くて気に掛かった・・・何しろ私は舞台を見ていて決して面白いとは思えなかったからだ、次回友達を誘って見に行こうなどとは一度も考えなかった。
WEBで見られる面白いのニュアンスも、エンタメ芝居のそれとは完全に違う・・・社会との接点やら身体の本質、コミュニケーションから舞台構造まで、皆が皆であそこはこーでここはこういう意味といった具合で長い文章を書いている。
評論家から評論家ぽい人まで、劇評という体裁のチェルフィッチュ評を書かれている・・・それが悪いということではなくて、最も単純な意味で楽しめたという一言を呟く事を良しとしないオーラをこの舞台は他に例の無いほど強力に解き放っているんだ。
演劇気触れか芸術気触れ、言い換えればサブ気触れのマイノリティーが解った気になる喜びのためにある舞台とも言えるかも知れない・・・私自身の演劇気触れ的な側面から見れば面白い舞台だったんだ。

それとは逆に、先日見た短篇の「ティッシュ」は単純に面白かった・・・単純に比較すれば、あっちは台詞付きダンスとしての身体という視点においてシンプルに楽しめたのだが、今回は演劇としての枠に押さえ込まれ、その枠越しに見ざるを得なくなると共に、身体性やら言葉の解放が物語君に阻まれて、演劇というエンターテイメントとしての魅力は無くなってしまっていた。

チェルフィッチュのサイトにある岡田さん執筆の演劇論の中に「俳優の仕草の中にイメージ、仕草、言葉の順に現れる」という表現がある・・・冷めた目で見てしまえば、演劇としてみると不可解で独特の論法のように思えるが、ダンス・舞踏としてみるならば容易に納得できる。
まず始めに、ダンス界隈で名前が挙がってきたというのもそういう理屈から考えればこんなに筋の通りの良い話は無い・・・わざわざ難解な言葉で複雑な議論をする必要などない。
これを演劇ではなく、ダンスと定義してしまうならば・・・。

演劇もダンスも舞台芸術だ、それらはグラフ上の軸によってパラメータ的に定義されるに過ぎない、演劇ではなくダンスである!という言い方は大いに誤解を招くだろう・・・私も敢えてそういう言葉を使った事を記しておく。
不用意にチェルフィッチュを素晴らしいと言う事には強い危機感を抱く・・・あれはまだ方法論の試行の只中にいるように私には思えたのだ。
評価するのはまだまだ時期尚早、プロセスの最中の今は大いなる議論のみに終始するのが得策だ・・・なぜなら本気で面白いとは言い切れないからだ・・・岸田戯曲賞受賞によって権威を獲得したかに思えるがチェルフィッチュの本質は戯曲よりもっともっと先にあるはずだ、作家だけではなく観客もその権威に抗わなくてはならない時、それが今という時期だ。

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2005年11月04日

猫のホテル『ウソツキー』

下北沢のザ・スズナリにて、猫のホテルの本公演「ウソツキー」を見てまいりました。
今回のチラシでは、70年代に一世を風靡したらしいバンド「はっぴいえんど」のアルバム「風街ろまん」を殆どそのままに引用、且つリスペクトしてデザインされていた。
はっぴいえんど自体は、その時代に生まれてもいなかった私ですのでリアルタイムでの状況というのはしらないのです・・・しかし、坂本龍一繋がりで聞き出したYMOにいた細野晴臣が中心人物としていたというのもあるし、日本語ロックの神様と称される彼らということで、数十年前のバンドながら、ラジオなんかだと結構かかったりしますよね。

実ははっぴいえんどかなり好きです・・・アルバムも持ってます。

そんなはっぴいえんどの傑作「風街ろまん」にフューチャーした本作品、物語はまさにその時代に音楽の道を選んだ者達の2つの時代を描き出したものでした。
笑いもふんだんに盛り込みながら、しかしてかなり素敵なストーリーだったように思います・・・ネタ重視でコントまみれの猫のホテルは好きですが、こういう良い物語もバランスよく盛り込んでくる彼らもまた好きだったりするわけです。
何しろ、しんぺーさんの裸体はありませんでしたから・・・。

物語はどこかの山奥の小さな別荘の風景から始まる・・・ふらりと現れた堀と名乗る男、別荘に住んでいた男3人と意気投合して日々を送ることになる。
その別荘に住む彼らは、今は日がな一日を悠悠自適に過ごしてはいるが、その昔は音楽に情熱を燃やしていた人たち・・・しかしそこには女性を巡る問題などが横たわり、彼らの音楽の道は夢の如くに形を薄くぼんやりとしたものになっていく。
そこに現れた別荘を差し押さえようとする元妻によって、別荘の持ち主であり主人公の高尾の生活は少しずつリズムを崩していく・・・崩れていく今と構成されていく過去の間で揺れ動く感情といったとっころか・・・。

物語の部分をざっと書いてしまったが、こういう物語の部分が半分あって、そのもう半分に文章にする事が出来ない笑いの部分があると思っていただきたい。
電車男で好演していた菅原永二さんも良かったですが、スーパーエキセントリックシアターから客演の久ヶ沢徹さんがかなり頑張っていたみたい・・・しんぺーさんとのやりとりから絨毯のシーンまで、大活躍でした。

中盤までは、物語としては別送でのんびりと過ごす人たちがメインだった所為か、展開に乏しくてストーリーにはイマイチ乗り切れずに、ネタは面白いけれどもという印象だった。
このまま終わっていたらネタが面白かった芝居として見られただけだったかもしれないが、終盤には物語が過去へと飛び始め、主人公の心の風景が語られ始めると一気に重層的になり、ストーリーも浮かび上がってくる。
別荘の形状に込められた思い、ふらりと現れた男の意味・・・生演奏が始まり歌が歌われる、はっぴいえんどの何かの曲に似た、そんな雰囲気の日本語ロックが歌われて舞台には次々と楽器が揃えられていく。

過去の中で主人公がドラムのセットに腰をかけ、いざバンドメンバによる演奏が始まろうとする瞬間、現在では別荘に火が放たれ、あまりにも美しすぎる過去は燃え上がる炎と共に過去の中へと閉ざされていく。
私はしらない時代ではあるが、70年代に生きた青年達が捨ててきた様々なものへの哀愁が結実した結末、その風景は知らない私にすら原風景としてのそれが心に潜んでいるらしいことを示してくれた。
物語として完成されてはいない、しかし笑いを主としながらもそれなりの話を見せてくれるというアプローチは大切にしてほしい、そんな気がした。

問題は、人が多すぎる・・・スズナリの構造上客の出入りが一ヶ所でしかできないので通路ぐらい用意した方がいい。
あまりにも人が多くて建物が壊れるんじゃないかと思った・・・床が抜けるんじゃないかとも・・・それは猫のホテルがどれだけ愛されているかという事をも物語っている訳だが、人が多すぎて鑑賞環境は良いとは言い切れない。

そうそう、それと携帯の電源に関して主催の千葉雅子さんが開演前に、一度も鳴るような事が無かったら舞台終了後に感謝の気持ちを表現しますのでという一言を・・・。
無事に携帯が上演中になることはなく、結果としてお客さんは千葉さんとしんぺーさんのコントのようなものを終了後に見ることが出来た訳です・・・予定調和だったとしても見れてお得感を持って会場を出る事が出来たのは良かったのではないかと思います。

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posted by yositosi at : 23:30 | コメント (0) | トラックバック (0)