« 2005年09月 | メイン | 2005年11月 »

2005年10月29日

青年団+劇団PARK『ソウルノート』

こまばアゴラ劇場にて、青年団+劇団PARKの日韓合同公演「ソウルノート」を見てまいりました。
11年前に青年団にて上演され、第39回の岸田國士戯曲賞を受賞した「東京ノート」・・・それを原案にして昨年韓国にて公開されたソウルノート。
今回は、日韓友情年2005の参加作品として日本再演との事。

ソウルノートというタイトル、韓国の劇団「PARK」との共同公演ということで、もちろん場所の設定は韓国はソウルですし、登場人物も多くは韓国の方であり、あちらの役者の方々。
普段の日本での演劇体験の中では、なかなか外国の演劇を見る機会は少ないですからね・・・イベントの一環としてはあっても、こういう小劇場での手軽な体験ってのは珍しいと思います。
言い方は悪いかもしれませんが、1度で2度おいしいってやつです。

そういう訳で、今回の舞台には当たり前ではありますが「韓国の空気」が流れていたのであります・・・日本人として、この作品の持つ資質が如何に異なり、そして如何に同じであるか、そんな精神面に注目してみるのが良いかと・・・。

物語は韓国、ソウルの小さな美術館でのお話・・・お客さんが行き交うロビーの風景である。
日本から尋ねて来た長女に会うために、韓国で暮らす長男やら次男の面々がその美術館に集まってくる・・・彼らはこの後、併設されたカフェのようなレストランで食事を摂るというのだ。
その傍らには、美術館の学芸員や絵の寄付の相談にやって来た人達・・・そして、絵を見に来た学生から、付き添いの男たち・・・多種で多様な人たちが描き出す2014年、近い未来のソウルの美術館の風景。

日本語と韓国語が入り乱れる会話劇・・・普段の青年団の作品ですら、同時展開する会話を同時的に聞くのは難しく、片方に集中しないで虚無的に言葉をレコーディングすることにしているんですけど、今回は日本語の台詞と韓国語の台詞に日本語字幕まで入ってきて、正直言ってしまって字幕を追いかけるだけで精一杯。
まぁそういう青年団戯曲の特殊性故の困難なるものはあったのですが、それでも救いだったのは字幕のタイミングが私の知る中ではかなり上手い方だったのと、字幕を投影する場所が舞台中央の目線の先であったということですね。
そんなテクニカルな上手さに支えられて、字幕の流れに流される事無く外国語の会話を享受できたんじゃないだろうか・・・。

この物語の基礎となる背景は、ヨーロッパで起こっているらしい戦争の匂いであろう。
フェルメールの絵画も非難措置によって急遽この美術館に運ばれてきたというのだ・・・そんな情報から、韓国の軍隊に所属する男や平和維持軍に行こうと思うと言った会話内容からその影のようなものが浮かび上がってくる。
しかしながら、実際のところ戦争と美術館のロビーの間には、とてつもなくかけ離れた現実が流れていて、戦争に関わる言葉は、日常の問題にあっけなく掻き消されてしまうのだ。

その距離感の問題が、この「ソウルノート」の中心に据えられたテーマ性と言えるだろう・・・それは地理的なものではなく、人間関係の距離感、間合いのようなものと考えてほしい。
平田オリザの作品ではパブリックなスペースが場所に設定されることが多いようだ・・・きっとそこにはパブリックな場所における抑制効果のようなもの、言い換えれば他人との一定の距離感を抜き出したいという思惑はきっとあるのだろう。
とは言え、S高原からのような死を巡るテーマがドンと置かれた物に比べて、今回の作品には明確な主題が無く、幾つもの会話がバラバラと並べられたような印象を抱く。

テーマに支えられたポジティブな会話ではなく、距離に支配されたネガティブな会話・・・どれもが後者に属するのではないのか、そんな舞台だった。

家庭教師の先生との距離、夫との距離、兄弟、軍人の彼、戦争、過去・・・そして、灰皿。
一定の距離を保ちつつ、でも離れきれない・・・その交錯が見ものといった感じだろうか。

日本の役者、韓国の役者・・・それぞれの持ち味が統一されずにそこにあって良かったと思う。
韓国の方々は身体動作が豊かで、肉体派という感じか・・・肉体というと強くなりすぎだが、体の使い方が魅力的、特に灰皿を動かす男性の本を読む仕草は「らしさ」が出ていたように思う・・・弱さ?。

比して、台詞、というかその間(ま)の使い方は日本組の方が数段上だったように感じた。
日本語、韓国語の壁・・・空気の使い方が違うのかもしれないのですが、日本人の私からすると韓国語の台詞の時間的な流れは違和感を感じてしまったのだ。

1つ明確に問題点にしておきたいことは、ソウルノートであること・・・そして、日本人が設定されていることの必要性が全く理解できず。
距離感・距離感、と書いておきながら、日本人と韓国人の距離感が全く描かれずに、完璧に分離した2つになっていたのは残念でならない。
物語のラストが日本人2人の会話で終わることも主旨からするとどうも解せない・・・その台詞に韓国の美術館でないと出てこない台詞があるわけでもなくである。

たとえば「東京のソウルノート」・・・そんなタイトルが適切かもしれないなぁ、という感想。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 23:10 | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年10月27日

11月のミタイ!イキタイ!キタイ!ブタイ!

11月1日~13日
ク・ナウカ『オセロー』at東京国立博物館 日本庭園 特設能舞台
http://www.kunauka.or.jp/

11月3日~15日
チェルフィッチュ『目的地』atこまばアゴラ劇場
http://chelfitsch.net/

11月4日~13日
ドイツのダンス『多様と多面そして変容』at青山円形劇場
http://www.doitsu-nen.jp/index_JA.html

11月9日~14日
千年王國『樂園』at石造りたまねぎ倉庫
http://sen-nen.sapr.jp/rakuen/

11月10日~14日
コスモル『Green(C)OPERA?』atOFF・OFFシアター
http://www.estyle.ne.jp/cosmol/

11月15日~20日
小指値『俺は人間』at新宿タイニイアリス
http://koyubichi.com/

11月16日~23日
ペンギンプルペイルパイルズ『不満足な旅』atザ・スズナリ
http://www.penguinppp.com/

11月18日~12月4日
青年団『砂と兵隊』atこまばアゴラ劇場
http://www.seinendan.org/

11月23日~27日
虎のこ 『ゲーゲーの恋 ゾンビック』atシアターVアカサカ
http://www.toranoko.info/

11月25日~12月4日
ブラジル『おしっこのはなし』atサンモールスタジオ
http://www.medianetjapan.com/10/drama_art/brazil/

11月25日~27日
ブサイコロジカル。 『極楽島コレクション』atウッディシアター中目黒
http://blogical.jp/

11月25日~27日
楽園王 『修禅寺物語/白鳥の湖』at吉祥寺シアター
http://www.geocities.jp/rakuenoh/

11月26日~12月6日
流山児★事務所『SMOKE』atザ・スズナリ
http://www.ryuzanji.com/

11月28日~12月6日
reset-N『DUST』at bar drop
http://www.reset-n.org/jp/index.html

11月30日~12月5日
机上風景『グランデリニア』at王子小劇場
http://www15.ocn.ne.jp/~kijou/

その他、お勧めの作品などが抜け落ちていましたら、コメントやメールでお知らせください。
劇団千年王國は、昨年度のリージョナルシアターで見まして、大変すばらしい作品だったので、今回も是非観にいきたいと思っています・・・しかし、場所は北海道、無理みたいです・・・ご覧になった方の感想、お待ちしております。

暫定版です・・・このエントリーは、加筆・変更が行われる事がありますので、ご了承ください。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 23:28 | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年10月22日

ロリータ男爵『信長の素』

吉祥寺シアターに、ロリータ男爵の10周年アニバーサリー公演『信長の素』を観にいってきました。
本作品は再演なんだそうで、副題に「10th anniversary special」となっています・・・10周年なんですねぇ、確かに昔から名前を聞いた劇団でしたが、まさか10年とは・・・凄いですね。
そんなに長く続けられている劇団ですが、私は今回が初見・・・いやはや、そう考えると私がお芝居を見始めたのは遅かったなぁとつくづく思います。

・・・数年のシベリア少女鉄道ですら全然見れてないんですから、ダメダメっす。

さてさて、個人的な愚痴はそれぐらいにしておいて、10周年のロリータ男爵の作品に関する文章を書いていきたいと思います。

今回の作品の印象、シュール系のネタを中心に笑いを散りばめていて終始楽しい・・・しかしながら、一番感心したのは、本能寺の変の描き方。
普段はネタばれしなくたって書くべき事は書けると思っていて、見た人との共有財産を前提に書いているんですが、今回に限っては結末を論じざるを得ないので、書きます・・・ので、未見の方で観にいく予定がある人は読まないほうが無難です・・・本能寺の部分の描き方が素晴らしい!っていうのだけ肝に銘じておいてくれれば・・・。

どんな本能寺の変であったのかというと、天才で豪傑とされる織田信長を大の甘党に描き、お菓子にとりつかれて甘いもの中毒になってしまい、それゆえに幻すら見えるようになってしまったという人物に陥れる。
結果、本能寺の変は信長と光秀の「お菓子どっちがいっぱい食べられたか対決」として描き出される・・・その風景はあまりにも醜く、バカらしいし、卑下していることになるのかもしれない(嫌な気分に襲われた人もいそうだった)。
しかしながら、私はその風景に歴史を美化しない美しさを見出したし、信長と光秀という男2人の戦いの描き方としては、実に傲慢で阿呆であって、正直言って事実もそんなもんなんじゃないか?という感覚にも至った。
そういう汚らしくて馬鹿らしいお菓子を貪り食う2人の姿に、信長という男の異形なる偉大さ、本能寺の変という歴史の深さすら感じさせた・・・
お菓子というものに異常に執着する信長であるが、それは天下統一という彼が執着したそれのメタファーであって、天才・奇才の姿としてはきっとどちらも変わらなかったのではないか?・・・美しくもカッコ良くもない彼らだが、そこには壮絶な人間の姿はありありと、そしてしっかりと描きこまれていたのだ。

ただのお笑いとして見ていると完璧に見逃すしだろうし、見逃してしまっては明らかに今回のロリータ男爵の良さを見失いかねない。
本質は面白さであり、十分に面白かったのですが、役者自身のキャラクター性がお笑い系の劇団の割に弱かった気がしました・・・女性陣、特に丹野晶子は独特で素晴らしかったのですが、男性は全体的に弱め。
そこでオリジナリティーが出ていない分、いや、だからこそ物語というものが前傾しているのだろう・・・そこに魅力を見出してこそのロリータ男爵、初見の印象は総じて言えばこんな感じだろう。

ミュージカルシーンもロリ男の売りの1つと言えるだろう、大変良かったですね・・・ミュージカルは殆ど見た事が無いのですが、やっぱり素直に盛り上がるし、しかも今回は天上の高い吉祥寺シアターというハコに高く舞台を組んで、そこにエキストラを大量に配置しての歌シーン・・・いやがおうにも、迫力が出てきますね。
音楽もクオリティーが高く、オープニングの映像もかなり質の高い仕上がりだったように感じました・・・完成度とセンス、タイムスリップにモグタンとはね・・・懐かしくて感動でした。

そんなわけで、楽しい2時間30分・・・エンディングの流れは個人的には大満足、逆に言えば中盤に眠気が襲ってくるところはちょくちょくありました。
ネタがシュール系に全体的に寄っていたので、笑える人と笑えない人が明確になってしまいますね・・・後ろのお兄さんは煩いぐらい笑ってましたが・・・好みはあるだろうな、そんな印象。

アニバーサリー価格2000円は、きゃなり安い!!おすすめ!!

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 22:30 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月21日

鹿殺し『エデンの穴』

新宿はゴールデン街の中ほどになる劇場、その名もゴールデン街劇場!にて、劇団鹿殺しの第14回公演「エデンの穴」を観にいってきました。
初めてのゴールデン街劇場、どんな劇場かと思いきや、最大のキャパが詰めに詰めて30人強という超小スペース劇場・・・隣の人と密着して身動きがとれないほど・・・。
そんなところで濃密な舞台作品を披露する劇団鹿殺し・・・黒の網タイツやらサスペンダーに身を固めた上半身裸に近い男達の熱い演技と、それを直視しなくてはならない観客との濃密な1時間半・・・感じられる人は感じられる高揚感を感じつつ、個性豊かな役者陣を堪能したのだった。

前回作品が、劇団鹿殺しの路上ライブのネタを散りばめたオムニバス的な章立て作品だったのに対して、今回はしっかりと物語からテーマ性、メッセージまで練りこまれている1つの作品の体を成していました。
ということで今回は、前回の雰囲気を払拭してまた新しい一面を見せてくれたように思います・・・とは言うものの、お決まりのフレディーマーキュリーのモノマネと鹿殺しのテーマ曲は歌って欲しかったという気持ちはあります、それが鹿殺しのルールであり形式でしょう?・・・路上ライブにまた観にいこうと思います。

さてさてストーリーですが、虫の世界のお話ですね・・・穴の中の暗がりに潜む小汚い虫達の生活を描き出した作品、正直、最後まで主人公の女の子がゴキブリなのかアブラムシなのかよく分からなかったのですが、まぁそういう虫の世界の話。
捕らえられ、一旦は他の虫とともに食われかけていたアゲハ蝶に恋のような感情をもった女の子は、彼を助けて、行動を共にし、そして2人で外の世界を目指すことを誓う。

芥川竜之介の「蜘蛛の糸」からイメージを抽出してきているようで、蜘蛛さんから糸を頂いて、それを使って外へと至る空の穴を目指すという光景はどうしても2つを重ねてしまいます・・・ここで明確にしておかなければならないことは、果たして目指しているところがエデンとなり得るのかというメッセージです。
蜘蛛の糸では、カンダタが糸を上っていく先には、お釈迦様のいる楽園があるわけですが、エデンの穴では果たしてそこが楽園とは言い難いという形でもって表されている・・・ヨルダンの砂漠からペトラ遺跡、戦争の影をチラつかせるが、イラクのオマージュか?。

そういうように、荒廃した2つの世界を描いた本作品・・・虫たちが住む地下の暗闇こそがエデンなのか、チャバネのミミが遠目で見る場所こそがエデンなのか。
楽園を求めて彷徨うわけであるが、結局何がどういった理由で楽園に相当するものなのかは定義されずに、ただただ求めるプロセスみたいな中にその楽園を見ているだけに過ぎないといった描き方だ。
観客の私は、つまり穴というものは、エデンに繋がっているのではなく、それこそがエデンである・・・そんなメッセージを読み解くに至った・・・この感覚は、思い返してみても鹿殺しの舞台内容から大きく外れる事はきっと無いだろう。

前回の公演では、鹿殺しという劇団のパフォーマティブな部分が強調されて終始祭りの如き騒ぎでもって熱狂に包まれていたが、今回は逆に、そういったものは50%ぐらいに抑えられて、そこに鹿殺しの思想や主張、感性が織り込まれていて期待を裏切りつつも、なかなか上手に纏め上げてきたなという風に感じました。

今回は最近知り合った舞台関係者?の方々と大勢で観にいったのですが、全体的に評価は高かったように思いました・・・衣装や舞台美術など、前回も感じたのですがクオリティーが高いです、キャパが30人の劇場ではあまりにも劇団側のコストパフォーマンスが悪いのではないか、そんなことを感じさせる舞台作りをしています。
路上ライブや劇団公演だけで生計を立てている彼らですが、その割に物作りが大変丁寧で、見た目からは考えられない手の凝りよう・・・全ページカラーのパンフレットもとても面白いです。

最近回っている小劇場の中では、ちょっと異彩な特異点なんではないか・・・これからも追いかけていきたい劇団です。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 22:40 | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年10月20日

シベリア少女鉄道『スラムダンク』

シアターサンモールにて、シベリア少女鉄道の第14回公演「スラムダンク」を見に行って来ました。
こちらの劇団は、多くを語らずともどんな劇をする劇団なのかは、皆さんの周知のところだと思うので、そういう前設定は、私の過去のエントリーやネットに溢れる文章を探して読んで欲しいと思うのです。

初日の観劇だけはする気にならない劇団です・・・多くの人が気が付き始めているのか?今回は初日にはちょっとしたイベントが用意されていたみたいで、そういうのが無いなら同じ値段で初日を見に行くのは如何なものか?と思う。
初日から完璧なものをっていうのはプロとして当たり前なんだろうけど、とはいえ回数をこなせばより良いものになるのは道理だったりするわけで・・・どうせならより良いものを見たい私は、今回は初日を避けるどころか最終日での観賞になってしまいました。

最終日は最終日で、情報を遮断するのに一苦労・・・普段はいろいろと読んでいる他の人の劇評やらレビューなんかもページすら開かない臨戦態勢で臨みました。
この苦労もシベリア少女鉄道ならではの事・・・不安と期待の一週間。

さていきなり本題に入っていこうと思いますが、今回の作品、ここ数作品の中では一番良かったんじゃないかなぁ・・・笑える作品じゃなかったので、会場は静まり返っていたものの、私の心の中はドキドキ感でいっぱい。

今回に限っては友達を誘わずに1人で観に行ったのですが、なんでこういう時に限って良い作品?・・・これもまたシベ少だったりするけれど。

お芝居の作品に関する詳しい内容は他のサイトに詳細に載っていたりするのでそちらを見ていただくとして、今回は「シベリア少女鉄道の時刻表」という話。
彼らは鉄道な訳ですから、そこにはどうしても時刻表なるものが必要だったりする・・・いや、もしかしたらそれが最も大切な事柄なのかもしれない。
それを肯定するように彼らの時間感覚は、日本の大手鉄道会社「JR」の分単位の正確さを乗り越えて、秒単位の領域へと至っている・・・ある意味で保証されたその正確さに、観客はまるでそれが当たり前のように乗車して、そして目的地へと運ばれていく間の車窓の風景を見ている。

彼らの作品は、空間的なアプローチではなくて、圧倒的に時間感覚に傾倒した作品群であるといえるだろう・・・世に溢れる作品が、物語とそれを構築する空間表現に只管に目を向けている中で、彼らはただただ直向きに物語らしきものと時間的な軸を操作する作品を送り続けている。
なんか、そうやって言い切ってしまうと何とも簡単になってしまうのだけれど、リアルという時間に拘束された演劇の世界で時間軸を秒単位で演出するそのアプローチは、過言するならば神の領域に挑戦を挑む行為にも見える。

今回の作品の壮絶さは、その圧倒的な展開もさることながら、そこに埋められた秒単位を切る勢いの時間的正確さとか、殆ど意味の無くなってしまった台詞や動きの機械的な正確さ・・・舞台も役者もデジタルな時間の中で展開されるんだ、この感覚は他の舞台には無いのである。

1人数役のシーンからそれらが入り乱れ始め、もはや着替えもままならず、同時に1人が幾つかの役を演じなければならない段になって「落語」が始まる・・・そこから、バスケットボールのシーンへ・・・トラベリングのファールを切欠に宇多田ヒカルのtravelingの曲が掛かり、台詞が歌詞となりエンディングへと落ちていく。

簡単にまとめてしまえば、今回の内容はそんなところだけれど、これらを時刻表どおりに走らせるシベリア少女鉄道という列車の凄さなるものを観客は認めている・・・そんな空気だった。
物語なんてものは、やっぱりあるようで無いし、例えあったとしても無い・・・あるならばあるに越した事はないし、シベリア少女鉄道の弱点の1つと言えばそうなんだろう・・・パフォーマンスなのか舞台なのか、そんなところが大きな論点だったりもする。
今回は、笑いも薄くて、大爆笑なんてのは無かったけど、笑いを超えて「なんかすげぇことしてんな」っていう目で最初から最後まで見れた・・・それはそれで良いと思うし、潔かったかな。
パフォーマンスというには勿体無いし、芝居という領域には括れない・・・もはやどっちなのかっていう論議は不毛だったりする。

時間軸を演劇に取り込んでいるんだから、それはこれまでの言葉では語れない・・・言葉が無いに近い。

ただ1つ、彼らを芝居から解き放つのはダメだ・・・引きとめ続けなくてはならないだろう、今回はパフォーマンス色がかなり強かった、役者も演者というよりはパフォーマーだったように思う・・・動作に気力が無い人が多かったと思う、気力ってのは台詞を演技に昇華する時の躍動みたいなもん、それが欠けている気がした。
もしそういうものがパフォーマンスの中に入ってきたら、ただ単に時間どおりに動く機械ではない、生身の人間の生身の物語が立ち上がるんじゃないだろうか?。
それこそ、芝居の核みたいなもんだ・・・それが浮き上がったら誰も芝居じゃないなんて言い方はしなくなるのではないだろうか?。

とはいえ、今回もこの鉄道は時間どおりに出発して目的地に時刻表どおりに到着した・・・その乗車時間は心地の良いものであったのだ。
また旅に出たい、次回の旅は来年の3月だ・・・長い充電期間、楽しみだ。

>>しのぶの演劇レビュー
私が書いていない舞台内容の詳細はこちらを見ていただけると良いと思います。

>>踊る芝居好きのダメ人間日記
過去の作品との接点とか、ネタ自体の分析なんかをされています・・・シベリア少女鉄道という全体からの俯瞰はこちらが良いと思います・・・気になる人はどうぞ。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 18:27 | コメント (2) | トラックバック (2)

2005年10月16日

アトリエサンクス『ベターランド2』

新宿はタイニイアリスにて、大阪の劇団・踊る演劇小ネタ集団アトリエサンクスの初めての東京公演「ベターランド2」を見て参りました。
アリスフェスティバル参加劇団・・・踊る演劇小ネタ集団という劇団の冠を読んだだけで、多少気になる存在になってしまうアトリエサンクス。
事前情報も何もないのだけれど、踊る演劇小ネタ集団という言葉にやられてしまった感のある私は、疲れた体に鞭打っての観劇・・・結論は面白いお芝居を見れて良かったなぁって、下手に小難しく無くてベタな笑いのオンパレード、そこに入る音楽とダンス。

いろいろと疲れていた体には栄養補給剤的な内容で助かりました。

前説はタイツーズなる全身タイツの男2人による漫才・・・軽妙トークでお話、アドリブ上手くて面白い、笑った。
この2人は自称有名らしくて、向こうの方では前説だけに呼ばれたりもしているとか何とか・・・調子に乗ってCD発売までしているらしいが、自主制作。
ここでお客さんの心を掴んで、本編へ一気に流れていきました・・・前説が面白かったので大変期待できる作品だって思いましたね(大阪らしさっちゅーんかな?)。

本編は、以前に公演されたベターランドの続きということでしたが、前作品を知らなくても全然楽しめる内容・・・ベターランドっていう子供の為の世界のお話で、ネバーランドのパクリ。
昔、そのベターランドに行った肇は、もう一度その世界に行きたいと願う・・・子供の時にヒーターを助ける為に銀の粉を手に入れ、それをベターランド中に撒いたのだけれど、結果ヒーターが助かったのかも分からずに、気が付くとベッドの中だったというのだ。
もう一度、ヒーターやインクに会いたいという彼の夢は叶い、ベターランドに戻る事ができたのだが、そこには大好きだったヒーターの姿は無く・・・。

まぁネバーランドやらピーターパンやらその周辺のキャラクターを駄洒落的に組み合わせての舞台設定。
物語も複雑なものは何も無く、ピーターパンという物語を知っていれば大体の人は基本事項は了解できるっていうお話・・・そこに悪者が現れて、大人になった肇も、頑張って昔の勇気を取り戻そうとする。
ふむふむ、聞けば聞くほど、単調極まりない感じのストーリー。

そこはやはり、踊る演劇小ネタ集団・・・舞台のメインは踊ったり、小ネタで笑わせたりという部分だった酔うな気がする。
ダンスは一級品?・・・小劇場ではよく盛り上げの為にダンスを使うところがあるけれど、役者がやるダンスはお粗末だったりする、そんな中で自称するだけのことはあるという出来の良さ。
ダンスシーンの完成度の高さにちょっと感動してしまう私・・・踊らされているのではなく踊っている、楽しいんだろうなぁっていうのが表情から伝わってくる・・・このシーンを見られただけでも価値だあったな。

カーテンコールで是非、もう一度踊って欲しかった・・・観客の全員がそれを望んでいた、そんな雰囲気のアンコールだったと思う。

それと、全体に散りばめられた小ネタの数々・・・ベターランドということでベタな笑いをするのが、舞台設定になってたりするけど、正直ベタな笑いでは私はそんなに笑えないのである。
正直言ってしまって小ネタの質はかなり今ひとつなものが多かったかなぁと・・・ベタとイレギュラーを上手く配合してバランスよくして欲しかったなぁ。
それと、語尾でキャラクターを作るのはちょっと勘弁して欲しい・・・ちょっとした役だったらそれで印象深くするのは良いとおもうけど、何度も出てくるキャラがそれだと、ちょっと煩いし飽きてくる。
・・・同じことはこの日記では良く書いている気がするけど、まぁ個人的な好みだったりする。

そんな中で、ジャイケルマクソンのキャラクターは最高に面白かった・・・一度来たら二度と帰れない子供の国ネバーランドを作る為にっていうのが物語にもマッチしていたし、そもそもあのキャラクターこそがベタ且つ強力なパワーを持っていたなぁ。
登場シーンは爆笑の渦でした・・・会場中。

そんな大爆笑もありつつ、基本的には小ネタのオンパレード・・・それらの質にはかなりむらがあって、平均値は低い気がしました。
まぁそれらが低いように感じたのも、役者の力量のむらの影響がかなりある気がします・・・メインキャラクターは強いものの、周辺になるとどうもガクンと数段質が落ちます。
1つの言葉、1つの洒落を言うのも、仕草やら間やら・・・更には吐き出す空気の使い方までを駆使してこそだと感じる・・・役者と客席の空気も見て自ら考えていればそれらの言葉は、決して浮いたものにはならない筈だ。
上手くない役者というのは、毎度一辺倒で言われた事を素直にこなすだけの存在だったりする・・・そういうのは流れの中で特異点としてすぐに分かったりする。

同じ洒落でも、面白い人とつまらない人がいる・・・空気作りの上手さだったりするんだろうなぁ。

そういうことでしたが、ネタだけでなくて、ダンスから物語、歌やらなにやらと総合して見ると、面白い芝居だったという気がする。
素直に楽しめる・・・最近この素直に楽しめるっていう言葉を良く使っているが、エンターテイメントして良い時間を過ごせる芝居だった、そんな意味だ。
役者やら物語、薄さを感じる部分は多いけれど、踊る演劇小ネタ集団ならその責務はちゃんと果たしているんじゃないかなぁっていう舞台だ。

拍手とかそういうところからも楽しい芝居だったというのが伝わってくる・・・来年にはまた東京で公演を予定しているとのことで、是非とも観にいきたいと思うのである。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 23:32 | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年10月10日

ギンギラ太陽's『翼をくださいっ!さらばYS-11』

PARCO劇場にて、福岡の地域限定エンターテイメント集団ギンギラ太陽'sの東京凱旋公演「翼をくださいっ!さらばYS-11」を見てきました。
福岡で話題沸騰の超人気かぶりモノ劇団というフレコミ・・・噂は以前から聞いておりましたが、初の東京公演がパルコ劇場という偉業ですが、果たして彼らの凱旋公演は成功することが出来たのでありましょうか?。

この劇団の公演を見るのは今回が初めてですので、普段からこのような形でオープニングを行っているのかどうかは分からないのですが、開演前に役者陣が開場にてパフォーマンスをすることで場を盛り上げるというのは大変上手いなぁと思いました。
ハコが大きいだけに、その大きな空間に漂う空気をどうやって温めるか・・・言い換えれば「良い雰囲気にするか?」ってことはとっても重要で、小さい劇場なら観客の気持ちを解きほぐすのは難しくはないと思うけど、大きさに比例して感情が波及するのは難しくなるでしょう。
その点で、ギンギラ太陽'sは地元のバス会社のバス車両に扮した役者が出てきての小ネタ&写真撮影会・・・会場の皆さんは我も我もと写真撮影。
なんか一気に空気が温まりましたね・・・主催の大塚ムネトさんの喋りでの裁きが大変お上手だった感じですね・・・素晴らしかったです。

物語は、1998年に福岡-東京間で新規参入したスカイマークエアラインズをテーマに、空の翼にまつわる歴史絵巻という内容。

かぶりもの劇団ということで、人間は1人も出てきません・・・飛行機から飛行場、ファミレスやらコーヒーなどなど、登場人物は全て擬人化されておるわけです。
感じた事は、物そのものの言葉と、それに関わる人の言葉とを、行き来しながら物語が繰り広げられていくのです・・・つまり、擬人化された物ではあっても、時折そこに携わる人間の言葉が語られる瞬間があるのだ。
観客は、物を通して人間の物語を見ているのだ・・・その部分に人は感傷を覚え、ふっと物そのものにフューチャーされた時に可笑しみのような感覚になるのだ。

かぶりものとはいえ、ただの物の物語にするには惜しくて、どちらかというと立派な人の物語になっていたりする。
こういう言い方はどうかとも思うが、ずるいやり口なんじゃないかと思う・・・通常は人間の感情を描き、物を道具として利用するのに・・・こちらは物も人も、2つの感情を描けるんですからね・・・素晴らしい方法を手に入れたといえば言えるんだと思う。

とはいえ、全てをかぶりもののみで描こうっていう試みはやろうとした勇気がまず素晴らしいのではないだろうか?。
かぶりものってのは古くからある笑いの要素だろうし、ドリフやらなんやらでコントぐらいの規模では多々消費されてきた手法だと思う・・・それを拡大して2時間の物語をやってしまおうっていう発想が独特・・・というか大胆というか。

それをやってしまった・・・それがまずギンギラ太陽'sの価値なんだと思うな。

物語はスカイマークエアラインズという当に福岡限定的な視点・・・東京の私も楽しく見れたし、逆に言えば福岡限定だったからより良かったという気もします・・・なんていうの?教養?。
きっと福岡の人たちとはちょっと視点は違ったんじゃないかなと思うし、きっと地元でやる時はもっとコテコテの地元ネタとかもあったんじゃないかな?・・・そういうのは少なめに、説明は丁寧に、地方ネタで押していたように思いました。

開場の笑い声も絶えることなく(私はそんなに笑わなかったけど・・・)、時に良い雰囲気に(私もウルウルしました)。
カーテンコールでは、スタンディングしている人も・・・大きな拍手が長い間止まらず、役者さん達も困っていた様子・・・観客を背景に役者達の記念撮影なんてものもあって、盛り上がりましたね。
・・・東京のお客さん、良い人多いですね(私もその1人)。

最後に、役者の力量が随分高いように思いました・・・どれくらい長い劇団だかわらかんのですが、役者さんたちが場慣れしている気がして、落ち着いているというか堂々としているというか・・・。
普段から大きな劇場でやっているんですかね?・・・舞台の使い方や立ち振る舞いがお上手でした。
被り物なので、いまいち誰が誰か分からんかったのですが・・・。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 17:33 | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年10月09日

アートネットワーク・ジャパン+Ort-d.dプロデュース『サーカス物語』

にしすがも創造舎にて、アートネットワーク・ジャパンOrt-d.dによる共同プロデュース作品『サーカス物語』を鑑賞して参りました。
この企画は、にしすがも創造舎演劇上演プロジェクトのVolume.1として企画されたという経緯があったそうで、稽古から公演まで全てをにしすがも創造舎という場所の中で完結させるという、私が知る限りでは初の試みなんじゃないでしょうか?。
こんな事ができるのも、廃校を丸々転用させて稽古場やタタキ場として提供している「にしすがも創造舎」という場所の成せる技と言えるでしょう・・・今回の公演も学校の体育館を利用しての作品ということで、大変に大きな舞台、高い天上・・・懐かしい匂いのするところでした。

今回、初めてにしすがも創造舎というところに顔を出してみた訳ですが、大変素晴らしい施設なのではないかと思います・・・自治体と周辺住民の努力と期待の結晶という感じでしょうか?こんな施設が多々あれば、と思ってしまいますけど、考えるに現状ではなかなか大変でしょうね。
利潤との兼ね合いが・・・。

というわけで、にしすがも創造舎という場所を使ったアートネットワーク・ジャパンとOrt-d.dの共同作品・・・サーカス物語は、「モモ」や「はてしない物語」で有名なミヒャエルエンデの原作、私は彼の作品が大好きでモモなんかはバイブルと言っても過言ではないぐらい、私の感性に影響を与えた傑作。
そんなエンデの作品を舞台で見れるということで、今回は相当期待して見に行かせて頂きました。

不思議な楽器による生演奏部隊に歌に出し物に忙しい役者陣・・・後のアフタートークでいろいろと制作裏話が聞けたのですが、楽器によるアンサンブルは実際の演奏者達ではなくて1から鍛えた奏者さんたちだったそうです。
その指導にはクナウカでも活躍している棚川寛子さんがあたって1ヵ月と少しという時間で、楽器の練習から曲の制作までと、ハードスケジュールだったそうですが・・・それが可能なのも1つの場所で集中して取り組める環境があったればこそという気がしてきます。
同様に、役者の歌の指導をした土井都希和さんやサーカス実技の指導など、役者は役者というスケールを超えて、芝居は芝居というスケールを超えて様々なプロフェッショナルによる密な協力による1つの舞台・・・芸術の交流を図るアートネットワーク・ジャパンの力技といった内容でしょう。

サーカス小屋を模した舞台づくり・・・鉄のパイプを組み上げて舞台にしていたり、垂れ下がる裸電球が照明に使われるなど、如何にも突貫工事な印象が当にテントらしくもあり、お金の無いサーカス団、そしてエンデという作家の退廃的ファンタジーの側面を強く感じられる心地の良い空間であった。
体育館という幅広で天井の高い場所をテントに見立てるというのは、脚本選考の勝利という気がしました・・・天井の鉄骨が如何にもなのです。

役者の力量の弱さを一部感じさせるのだが、魅力的な役を役者がより魅力的に描いてくれている人が数名おり、その人たちのパワーで役者陣全体のベースが支えられていたように感じました・・・主要キャラは良い役者さんが配置されていたように感じました。
演出に関しては多少ですが心残りがあります・・・大変に魅惑的な舞台や衣装、音響に照明などなど、レベルの高いものが寄り集まっていてそれぞれはとても素晴らしいのですが、それを組み上げる演出という意図がいまいち魅力的に仕上がっていなかったように感じられた。
切り取られた絵画の如き美しさはあるものの、流れとしての上手さが強く主張されていなくて、例えば暗転の仕方や多用というのも流れ作りの問題を如実に表していたように思う・・・驚きなるものが無かった、その一言でお察しください。

足し算であって、掛け算になっていなかった・・・そんな気がする。

とはいえ、私個人的にはとても楽しい舞台であった・・・エンデの本が舞台化されているのだから引き込まれてしまうのも仕方が無い、今回はもう物語が良すぎる・・・許してほしい。
集中して見れた2時間、ちょっと笑って、ちょっと感動・・・もうそれだけで十分、良い芝居だった。

とはいえ、限りなく良いものであるとは思えない・・・でも、良い・・・でも・・・という自己ループ状態。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 17:37 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月08日

少年社中『リドル』

青山円形劇場にて少年社中の「リドル」を鑑賞してきました。
今回の公演は、廃墟に眠る少年の夢3部作の第1作目ということで、これ以後も同シリーズの元で作品が発表されていくようです。
少年社中の青山円形劇場は、1年とちょっと前のハイレゾで始めての進出だった訳ですが、あの作品で気を良くしたのか、早々に2回目の公演が打たれました・・・私はその時の公演が少年社中の真骨頂で、彼らの芝居は円形劇場とかなり相性が良いと感じました。

早い段階で再度、同様の構成で鑑賞することが出来て、個人的に大変嬉しかったりしました。

というわけで、個人的にいわく付きの今回の公演でしたが、その実は果たして如何なものであったのでしょうか?。
蓋を開けてみての感想は、残念・・・円形劇場の使い方、物語の質、役者から音響まで・・・ほぼ全ての面で残念な印象を受けた・・・まぁその残念という感覚は、前回のここでの公演ハイレゾがあまりにも良かったので、それに比較すると圧倒的に弱いという意味での残念だ。

まずいただけないのは、円形舞台の中ほどに備えられた大きな台の存在だ・・・場所的にその所為で見辛かったというのもあるが、それ以上に真ん中にある所為か役者の動線を遮る遮る・・・。
あの大きな舞台美術で遊園地という設定の何か?を表現したかったのかもしれないが、結局のところそれを如何に舞台の中で使っていくかという事に注力され、流れも雰囲気も壊していたように感じたのだ。
邪魔になるあれを如何に使うのか、ではなくて如何に使わずに風景を見せるかに努力の方向性を期待したかった・・・無くても出来る芝居だと感じたし、社中の青山での舞台に方向性がでるのは、そもそものスピード感やダイナミックさという少年社中の持ち味が、全方位的に展開されることによる更なる開放の芽を摘む行為だ・・・間違いない。

シーンや舞台なるものは、社中お得意の音響照明の力で見せて欲しかった・・・そうそう、今回は照明には◎を与えたいと思います(最後の木漏れ日演出は秀逸)。

それと役者、それにともなって演出・・・役者が多すぎて必要の無いキャラクターが多すぎる、劇団上田は全員で1つみたいなものだから良いとは思うけど、それにしたって多すぎる。
物語は不思議の国のアリスをベースにしているんだけど、2時間に渡って描く物語の本質は実はほんのちょっとしたもので、それに比して登場人物はかなり多いと思う・・・社中の見せ方の1つに入り乱れての場面展開があって、その為には必然的に人も多くなるだろうとは思うけど、多ければ良いわけじゃなくて、洗練されて美しくあるべきなのがまず始めだと思う。

今回は役者に関する演出上、洗練されていて美しくあるものが無かったな・・・それは先の舞台装置の問題、さらには脚本レベルの問題が大きく影響しているとは思うけれど。

脚本は悪くないと思う・・・アリスの世界観を転用した夢の物語、綺麗だけじゃなくて毒もあって、その毒こそを綺麗に昇華させる結末、泣くまではいかなかったけれど面白い本だった。
少年の夢三部作っていうことだったけれど、この作品が次回作の何かの前フリだったり、伏線があるという事は全くもって無いだろう・・・なんかそういう書き込みをWEBで散見したので私の主張を明確にしておきたい。
・・・脚本は良いとしよう、けれどその脚本による演出があれでは脚本が勿体無い。
追いつ追い付かれっていうやり取りが必要なのは自明なのでそこは除くけれど、終始ファンタジックな演出に傾倒していて、ファンタジーをファンタジックにしたらそれはもう幼稚でしかない・・・童話にも子供向け・大人向けがあるように演出によってファンタジーは、高尚なるものにもなるし真逆のそれにもなってしまう・・・その悪い面が今回は前面に出てた。

最初から最後の手前5分ぐらいまで、子供向けのエンターテイメントが繰り広げられ、それはそれで面白いけれど、少し離れて冷めている自分もいる・・・そんな状態で感動もできまい。
前回のハイレゾで少年社中は変わったという内容の文章を書いたんだけれど、簡潔に言えば前の状態に加速度的に振り切れてしまった気がする・・・今回は特にキャラクターが効きすぎてた。
脚本から演出に至るまで、今回は方向性を見失っていた気がする。

こんなことを書くのもどうかと思うが、いつまでもこの手の芝居ができる筈も無い・・・少年社中が10年後も芝居をしているかと問われたら、今の私はNOとすぐに答えるだろう。
今は若いし、能力もあるけれど、それは無限ではない・・・かといっていつまでと言えるものでは無いけど、終わりがあることが明確なら、そこに向かって手を打たねばならない。
それが解散なのか、それとも異なるところへシフトしていくのか?・・・お客さんが多い今だからこそ、観客に今までに味わったことの無い感覚を提供し、それによって自らを成長・シフトさせていかなければならない。

公演場所は成長しているかもしれない、けれど芝居が成長していない・・・限界は遠くない気がする。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 22:58 | コメント (0) | トラックバック (1)

イデビアンクルー『迂回プリーズ』

新宿パークタワーホールにて、井手茂太率いるイデビアンクルーの新作公演「迂回プリーズ」を観にいってきました。
イデビアンクルーは今回が初めてですね・・・以前から行こう行こうとは思っていたのですが、気が付いた時には他の予定が入っていたりってな具合で、ようやっとの事で作品を見に行くことができました。
最近は、多少ですがダンス、中でもコンテンポラリーダンス?ってやつに興味津々なので積極的に目を向けるようにはしていきたいですね(多少興味津々って変じゃない?)。

今回の作品はホールから横に長く舞台を切り出して、その舞台の床をチラシと同じように赤く塗り、そこに青い照明を斑点状に照らしてある。
そして背景には白い布が一枚・・・ここに映像でも映したりするんじゃないかなぁ、なんて考えながら開演を待つ。

左の捌け口からゆっくりと1人の男がまっすぐに前を見ながら反対側に向けて歩いていく・・・その服装はベレー帽にネッカチーフ、薄茶色の服装・・・この服装には私個人の思い入れが強くある。
その格好は当にボーイスカウトの服装である、私は昔ボーイスカウトをやっていて、その時には毎回この制服を着させられていたものだ。
今回の服装が何故これなのか?もしかしたら全然違う意図なのかもしれないけれど、もう私には最初の一瞬から意識はボーイスカウトに飛んでしまっていた。

そう考えると、迂回プリーズという名前も何となく繋がってくる気がする・・・それというのも、ボーイスカウトでは矢印を使う事が多々あるからだ。
よくイベントでウォークラリーのようなことをするのだが、そういう時に渡される地図には方向も無ければ、距離の指示も無く、ただ曲がり角と矢印だけが羅列されているものだったりした・・・コンパスを頼りに山に登っていくときも矢印を道に記していくなどのテクニックもあったのだ。
今回のイデビアンクルーの作品が、どこまでボーイスカウトを意識しているのか、もしかすると全く当て外れかもしれないけれど、そんな事を考えながら舞台を見ていたのだ。

後半には倒れた人を救出する場面もあって、私としてはかなり確信的なんですが・・・ボーイスカウト。

ステージは照明を切り替えながら雰囲気を出しつつ、ノイズ系から民族音楽っぽいやつまで多様な音楽を使っていて、私は音楽を聴いているだけでもかなり楽しめたのだ。
そういう音楽に合わせてのダンスも大変ポップなものが多かったように思う・・・肉体の限界を目指していくようなダンスは見ている私としては何だかよく分からないなぁすごいけど・っていう感想が多いのだけれど、今回のはポップで明るくて、途中にはコントのような笑いも散りばめられていて楽しくみれた。

同時期に水と油も公演を行っていたが、似たようなものなんじゃないかなぁって勝手に思っていたんですが、蓋を開けてみたら全く違って、水と油は物語のようなものが浮かんできたのですが、こちらはそういうものは殆ど無くて、面白いダンスというかパフォーマンスというか・・・群れで動く人間の構成的な部分に面白みを見出している、そんな感じだった(水と油はパントマイム)。

迂回プリーズってのは、例えば人を避けながら進んでいくとか、円弧を描くように歩くとか・・・そういう部分の事を言っているのかな?・・・ダンスってのは台詞とか物語が無いので、観客が掴んでいかなければならないですね、それが大変。

楽しい時間を過ごさせて頂きました・・・また観にいきたい、けど絶対行くとは断言できない感じ、やっぱりダンスに3500円ってのはちょっと高い印象を持つ私。
場所が良いのでそれぐらいの値段はしてしまうのかもしれないけれど・・・ダンスって総じて高くないですか?チケット。
舞台美術とか練習期間も演劇に比べると金がかからなそうなのに・・・なんでなんだろ?。

水と油は演劇的で、イデビアンクルーはダンス的だったと思うな・・・私は水と油の方がやっぱり好みだ。
そうそう、白い背景には映像を映すとかは無くて、後ろから影を写せる仕組みになっていて、それを使って1つコントみたいなのをやってました・・・笑いました。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 18:45 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月07日

うずめ劇場『レオンスとレーナ』

神楽坂の劇場theatre iwatoにてうずめ劇場の「レオンスとレーナ」・・・1ヶ月に渡って行われた旅公演のラストもラストの千秋楽を見に行ってきましたのである。
というわけで、カーテンコールも盛大な感じでしたね・・・拍手も長々と鳴り止まず、熱狂っていう程でもないですけど、それなりに開放された終劇だったんじゃないでしょうか?。

「レオンスとレーナ」はゲオルク・ビュヒナーっていうドイツの作家の作品・・・1813年生まれの彼は、24歳にしてこの世を去るわけだが、生前は全くもって評価されなかった作品群は、後の表現主義台頭とともに急激に高まっていったんだとか・・・。
今では、ドイツではゲーテと並ぶ作家として称されているらしい・・・そんな彼の数少ない作品の中から今回は「レオンスとレーナ」。

この作品は、ある1つの国の王子レオンスとまた別の国のお姫様レーナが決められた結婚をしたくないとお城を飛び出して自らの理想の場所、理想の人を求めて旅をする物語でした。
そういう各々の感情が、詩的でファンタジックな・・・時に意味が良く分からない言葉としてどんどんと垂れ流されていく・・・時間の割にはかなりの言葉があったんじゃないかなぁ。
ミュージカルっていうのは大げさだけど、かなり歌を歌うシーンが多用されていて何とも異質な印象・・・加えて生演奏が観客の後ろで行われていて素敵であり、且つ煩かったりしました・・・生演奏は良いですけど、あんまり前面に出てくるのはあんまり好まない私です。

さて、作品ですが・・・この物語をどう翻訳していったのか?がこの舞台を理解する一番手っ取り早い近道に思います。
なんですが、原作を知らない私・・・どこがどうやってうずめ劇場色に染められたのでしょうかね?・・・なんとか読み解こうとしながらインターネットをウロウロしていたら、たまたまドイツで公演された同作品の文章を発見。
チラチラと読んでみると、なんとまぁ・・・読めば読むほど、今回見た作品が思い起こされてくる。

どっちが先に作られたんだろうか?まぁ日付的にはベルリーナアンサンブルの方が先のようだが・・・ピエロのような化粧とあるが、確かうずめ劇場では皆が半分だけ仮面を付けているという衣装であった。
その他にもミュージカル的な演出やラストのオーケストラピットへ送られた拍手など、読む限りでは同じものを見ているのではないかと疑いたくなる。

作品の内容に関しては、そのページの文章を読んでいただければ、劇団は違えども物語から雰囲気までは伝わってしまうのではないか?・・・それはそれで多少の危惧を覚えるのだが・・・。

役者の演技に関しては、「ねずみ狩り」の時にも感じたものが更に増進されたような気がした・・・それは単純に人数が多くなったからだと思うのだが。
うずめ劇場の役者は、上手くない・・・その中でも上手い人から下手な人までと幅は広いが、総じて言ってしまえば下手といえるだろう。
ねずみ狩りの時には、その下手さなるものが登場人物の設定からみてみると意外にもスッと昇華できてしまった・・・それはまさに現代に生きる人間の一面を見せてくれていた気がしたからだ。
対して、今回の作品は王様やら王子様、更にはお姫様まで出てくる中世ヨーロッパを髣髴させる物語・・・その姿はもはや架空であり、架空であるが故にそこには「芝居」としてのリアリティーが肝になってくる。

そうなると、やはり上手い役者の芝居でこそ見せられるエンターテイメントとしての価値が欲しくなる・・・物語には思想から哲学といったお堅いメッセージも盛り込まれていたようだが、それはそれとして基本は喜劇であり、音楽劇でもあったのだから、せめて歌ぐらいは上手く歌って欲しかった。
上手くは無い役者の演技が、アングラ的な匂いを醸し出し、メタ的に舞台という構造を浮かび上がらせるっていう言い方も出来なくもないし、うずめ劇場という劇団が翻訳脚本を叩き台にしてそういうちょっと独特なところの独特な空気を大切にしているっていうのはいろいろなところから伝わってくる。

今回の作品で言えば、ねずみ狩りとは違って、役者を切り抜いた物語としての舞台を堪能したという印象が強い・・・特に主人公の王子の言葉は1つ1つが身に染みるほど愉快だった・・・詳しくは覚えてないけど、面白かったことだけは覚えてますよ。
それと、後藤ユウミさんと松尾容子さんの姫とばあや組・・・この2人は良い芝居をしていた、とても安心して見ることが出来た・・・しかも面白かった。

福岡演劇の今
薙野信喜さんのサイトでの評論・・・かなり辛辣です・・・内容というよりは劇団のスタンスへの提言でしょうか・・・。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 23:04 | コメント (0) | トラックバック (0)

メゾン・ド・ヒミコ

新宿で映画「メゾン・ド・ヒミコ」を見てきた・・・ヤフーのユーザー評価で高成績なので見たいなぁと前々から思っていたんですねぇ。

だから、どんな話だとかは全然知らなくて・・・映画館で初めてみてゲイの老人ホームの話っていうのを知ったぐらい。
ゲイが老後を不安無く暮らしていける楽園として作られたホーム、この発想自体が私が生活している環境からは全く想像もつかない遠い話だ・・・だけれども、確かに世の中にはそういう要望もあるだろうし、そういう意味ではドキュメント的で状況設定それ自体が考えさせられる内容だ。

とはいえ、彼らは陽気で、そういう姿を見ていると苦労なんてものは微塵も感じさせない・・・そういう意味で途中途中で笑いも入り、前半のダルさも後半に向かうに従って一気に物語に引き込まれていく感じだ。

しかしながら、そこは老人ホームということもあって、逃れる事の出来ない問題が隣り合っている。
ゲイと社会生活との接点を描きながら、柴崎コウが演じる娘と父の心の交流・・・そしてゲイとして描かれるオダギリジョーと柴崎の恋?というか友情とういか?。

大感動というものがある訳ではない、大笑いも無い、でも良い雰囲気の映画ではある・・・この穏やかさは心を癒す。

そしてオダギリジョーが良い・・・最近ヒゲを伸ばしているんだが、彼みたいにしようきゃな。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 18:55 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月06日

メタリック農家『仮』

中野のウエストエンドスタジオにてメタリック農家の「仮」を観てまいりました。
毎回公演タイトルは漢字一文字という劇団のようで、今回の「仮」は公演タイトルで仮のタイトルのままではないっていう風に当日パンフレットにも書かれていました。
まぁ言われなくても分かりますけどね・・・●●(仮)っていうのが普通ですから・・・。

葛木英さんが劇団の主宰で且つ、作・演出との事・・・劇団のコンセプトはWEBにも書かれていますが引用してきますと「結構最近で、結構近所のおとぎ話」なんだそうです。
ドロドロっていう風にも書かれているのですが、どちらかというとこちらの方が今回の公演に関してはピッタリなんじゃないですかね?。
そんなドロドロっていうのがあってちょっと怖くて、ちょっと面白い・・・事前情報ゼロで観にいって予想外の作風に戸惑いながらも役者陣の良さをベースに独特の世界を作り上げていたんじゃないかと・・・。

話は軽いミステリーというか・・・うーん、ホラーというか?。
近くの崖に女の幽霊が現れるという話・・・カップルで心中をしようとしたけど女だけ死んでしまって未練があるんじゃないのか?なんていう会話から始まる・・・そこは絵がやたらと飾られている豪華な家の居間、主の男に妻、医者に看護婦・・・知恵遅れの女の子などがいる風景だ。
その話がネタ振りとなって、その後の物語は展開する・・・その不気味な女幽霊を中心に、不穏な電話の声・・・そして、女幽霊は主の前に窓を割って現れる(ビックリした~ホラ~)。

まぁ実は女は幽霊なんかではなくて、実はこの家の主とされていた男はこの女の元彼氏で、あることを切欠に記憶喪失になり、それ以来この家の主として仮の生活を送っていたわけです。
女は男の元に現れるが、果たして事実を知った男はどの道を選ぶのか・・・。

ドロっとした物語ながら、途中途中に入る笑いは面白い・・・それを成立させられる役者の力量がある。
知恵遅れの女を演じた女性は、あまりにもリアルで正直見事だとは思ったけれど辛かった・・・ところどころのお笑いが救いであったし、面白かった。
それと、バラリロガンガンベガスからの客演の峰明大は素晴らしい・・・前にも思ったけれど・・・。
映像とか音楽・照明も個性的・・・ダンスなんかも素敵だった。

問題点は、ちょいと長い・・・ストーリー的にはもう少し後半に膨らみが欲しいと感じたのに、全体は長くて2時間近く。
台詞が長ったらしいところがあってテンポが消える・・・そういうところを削って、殆ど登場してこないキャラクターとかエピソードを膨らませた方が全体の物語が豊かになっていい。
特に、引田天功もどきの姫(作・演の葛木)とSPのコンビが一番最初に出てきたとても私好みの面白さだったのですが、このペアが殆ど物語に関わらないのは大変残念・・・期待していただけに・・・。

というように、面白いキャラクターやダンスなどが前半で展開されていたのに対して、後半にはパワーダウン(時間的影響?)を感じさせた。
前半でかなり満足できた芝居だっただけに・・・前半の良さが後半に生きればということを考えてしまう舞台だったか・・・。

やはり、前半の面白い部分ででしか物語を引張って行けていないというのが大きな問題なのではないだろうか・・・記憶喪失の人間を別の人物として扱うというのは使い古されていると言っても過言ではないろうし。
物語としてはもう一捻り期待したいところだ・・・長く感じるシーンを魅力的に描き、もう1回展開する物語で2時間が妥当なんではないだろうか?。
仮の男と妻を演じる女・・・2人の仮初の愛を描くのであれば、その愛が嘘として昇華される瞬間に女の溢れる思いで感動の1つもしてみたかったのである。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 23:52 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月05日

うずめ劇場『ねずみ狩り』

神楽坂にできた新しい劇場theatre iwatoに初めて行っていました・・・公演はうずめ劇場の「ねずみ狩り」。
今回の公演は、1ヵ月を掛けての福岡から東京までの旅公演の最終公演・・・2つの演目を携えての東京公演ですが、今日はその内の1つ目「ねずみ狩り」について。

今回は再演という事で前回の評論など、WEB上でも幾つか関連情報を見ることが出来ます。
「ねずみ狩り」が誰の作品でどういう経緯で書かれたのかっていう内容はWEBで読んでもらうとして、早速この作品がどういうポジションを保ちつつ、どういう方向へと向かっていったのか・・・そういう事を書いていこうと思う。

街の外れのゴミ集積場・・・きっとどこかの海近くのそれであろう、そこに車で乗り着ける男女・・・異臭がたちこめ、大きなネズミが行き交うその場所で、セックスにでも興じようという雰囲気である。
しかし、ノリ気な男に対して、女はそれを拒む・・・「貴方の事を何も知らないから」と言う女に対して、身包みを剥がしていく事によって逆に互いを知っていくという過程が用意されている。
全てが露になり、ゴミ集積場に帰って行くと、そこには真っ裸の2人が取り残される・・・そこに至る過程には自作の車に対する男の想いやネズミと称して観客を銃で撃つなどなどのシーンが描かれるが、それらはやはり2人の裸であり、ダンスであり、汚れた身体という終末へと続く道すがらなのだろうと感じた。

観客へと向けられる銃口や火花、そういうことで観客をネズミ化することの意図は何か?逆に役者の2人をネズミ化することの本質とは何か?。
ネズミは汚いやら臭いなど、まぁいろいろと言えるだろうし、メタファーさせることもできるだろうけど、舞台を観劇中に私がそこから何かを感じたのかと言われるとそんなことは全く無く・・・ただ銃を観客に向けたとかそんな程度のものだった。
なかなかに印象的であったけれど、私自身の感想としてはそんな小道具に騙されるか!といったところだ。

それよりも、この舞台の面白さは淡々と身包みを剥いで互いにゴミ集積場へ捨てていくというプロセスだろう。
その行為自体は最終的にどこへといたるかという事はもはや予定調和として見えている訳だが、だけれども、だからこそ、そのプロセスをとことん楽しんでやろうという気分になった。
それこそは男が呟いた自作の車作りのプロセスと完成の虚無感と似たようなものなんではないだろうか?・・・持ち物を1つ1つ確認していく事で互いを理解する、理解されればされるほど裸に近づいていく。
その流れは大変象徴的ではあるが、シンプルに見てみるとまぁ当たり前かという感じだ。
その当たり前の流れなるものを、ゴミ集積場という場所で美化するではなく醜悪な表現で描き出す・・・近代の下手に小奇麗な関係に終始する人間というものに対するアンチテーゼとして面白いものとなっていると思う。

脚本は面白い、それを乗り越えられていない演出・役者というものをこの舞台からは感じてしまった。
観客に向けられる銃というものが必要であったのか?という事に関しても、必要ならばもっと明瞭化してほしかった・・・下手に象徴的なだけに両刃的なシーンである、だからこそ配慮があるべきだった。
そしてまた、方言という事にも問題を提起させてもらう・・・方言に関しての記述が脚本の中にあるそうだが、このご時世に方言の意味がどれほどあるだろうか。
方言というものは土着のものであり、そしてその影響力は言葉以上のものを観客にもたらす・・・特に地域差がそこに芽生えるとそれは1つの障壁になってしまう。
今回の舞台でもそういう方言は魅力的である訳ではなく、逆に不快なものであったし、不快であることが何らかの本質を持っていたかというと疑問である。
・・・土着の方言でという作家の言葉は、リアリティーに関してであり必然性を考慮しろという言葉だと思うのだが、そういう中で日本で公演する作品としての必然を見失ってはいないだろうか?。

脚本としては大変面白いものであったと思う・・・2人の登場人物を裸になる為の脚本だ、潔さに感服する。
その作品に挑んだのは評価できるし、役者もご苦労様である・・・挑んだは良いが勝てていない、負けてはいないけどというプロセスにある状況だ・・・乗り越えて欲しい作品だが、果たして。

>>Wonderland銃口の問題、裸体の弱さ・・・確かに強烈なシーンだっただけに注目ではあるけれども、作品としてはそこに引張られては勿体無いという印象を持ちました。
古い脚本であっただけに現代との齟齬は大きいでしょう・・・とはいえ、裸体へと至るプロセスはゴミに象徴される独特のアプローチがあり、全体は醜美に満ちていましたし、そこから理解するものはあったように思ういます。
とはいえ、演出的なふくらみの無さは当にという印象です・・・どうにでもふくらませそうな作品だけに弱さは致命的な気もします。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 23:14 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月02日

ポタライブ『吉祥寺「断」』

吉祥寺にて、吉祥寺という劇場を使ったポタライブの『吉祥寺「断」』を観にいってきました・・・私は「だん!だん!」って呼んでいたんですが、早速「ことわり」と読むという事を教えてもらいました。
ポタライブは、ポタ(散策)しながらライブ(演技や演奏)を楽しむという意味の造語だそうで、劇団の名前というよりは1つのジャンルとして主催の岸井大輔さんは考えられているそうです。

数々の劇体験の中でも駅に集合というのは初めてじゃないかな?・・・トリのマークで王子小劇場の周りを1周させられたのも心地の良い感動体験ではあったが、それに近い感覚。
劇場ってのは感覚的にとても閉鎖的で、ここからが劇場であり芝居が始まるところ、この線からそっちには干渉しないからそっちも見逃せ!っていうオーラが強い気がします。
どちらの体験もそういう閉鎖的なるものが、私自身の生活空間というある意味では演劇に対して油断している場所に侵攻してくる感覚が、ドキリという感情を刺激する・・・何と言うのか、どちらも武器を持たずに無防備同士でそこにいる、そんな状況下。

街といった場所を劇場に見立て、今の状況を演劇と捉え直す・・・演劇とは如何なるものか?劇作家の永遠の命題に対しての1つの試みがこの「ポタライブ」であるようだ。
私も近いところに長い間通い続け、親しみの浅くは無い場所吉祥寺、今回の作品は、吉祥寺という劇場における、吉祥寺という街の物語・・・長年に渡る再開発をテーマに街が抉られ、展開されていく。
そこに見えてくるのは、街の背景であり息吹だ・・・そして、ポタライブの実践。

051002.jpg

写真は公演中?に撮影した写真の中の一枚・・・カメラが写している先のガラス窓の向こうに少女が映っているのが分かるでしょうか・・・小さいけど分かるはず・・・これが吉祥寺という劇場で行われている芝居?の一部だったりします。
作家の岸井さんが吉祥寺の再開発を巡る街の物語を、その場所その場所で語る・・・場所を移動する過程で道路を横切ったり、建物の中に入って行ったりとをする訳だけれども、そういう時にあちらこちらでパフォーマンスが行われている。
参加者の皆がそれを見つめるものだから、街を行き交うだけの人々も足を止めてそれに目をやったりもする・・・そういう分け隔ての無さがこの作品の1つの面白さなんではないかと思う・・・つまり状況こそが作品ならば、それを見る人はもう既にその観客なのである。

そう考えると、お金を払って見ている私たちは、観客としてはどちらかというと状況に甘んじている存在って考えられるし、安心したところから見ている・・・まぁつまり観客席に座っている観客とさほど変わらない。
ポタライブの実践としては、まぁお金を貰うってのは作品を生み出している過程や消費している時間が掛かっているから取るのは仕方ないんだろうけど、理想的には大道芸みたいに後払いっていうのがあるんじゃないかなって感じる。
それは先に書いた街との関わりの仕方、そしてその街に行き交う人々という理想的な観客を設定した時には、結論としてその構図しか残らないんじゃないかなって思うんだけど。

演劇との接点ではなくて、街との接点がこの作品では重要で、その接点を観客がどう自覚するのか・・・ポタライブはその接点の部分にちょっとだけ油を垂らしてあげて潤滑良くさせてくれる・・・なんかそんな感じのアプローチ。
物語は最終的には観客が観客の中に芽生えさせるもので、街を行き交う自分の足跡の上に芽生えるものだ・・・その為の油。

うん、大変面白くて、大変為になった・・・吉祥寺という街がまた少し好きになった・・・もしも、自分と所縁のある街で彼らの作品が上演されるなら、絶対に観にいくべきだ・・・それはきっと貴方の為になるから。

今週末にもう公演されることが無いとされた吉祥寺「源」が再上演されるんだそうだ~~あ~~見に行きたかったぁぁ、予定がハッキリしていれば絶対に行ったのに~~悔まれる!!

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 23:03 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月01日

風琴工房『ゼロの柩』

三軒茶屋のシアタートラムにて、風琴工房の「ゼロの柩」を鑑賞してまいりました。
前回公演「機械と音楽」は見ようと画策していたのですが、直前でチケットが取れなかった為に諦めて今回が始めての風琴工房・・・TOKYOSCAPEというイベントに参加されるということである意味東京の小劇場を代表する?劇団みたいです。
今回の作品は2002年に上演された作品の再演・・・1人の死刑囚を巡る群像劇、照明・音響・美術などスタッフ面でもかなりの力量を投じた作品と感じられました。

舞台は斜め十字に組まれており、中心の交差部分が周りと数十センチほど切り離された状態で独立してある・・・そこは死刑囚を拘留するための牢屋として設定され、開演時から1人の男が鳥かごを眺めつづけている。
舞台上の道具は全て天から吊るす形で備えられており、バッグやちゃぶ台、台所の一式までが片側を吊るされて斜めに宙に浮いているのだ・・・そこにぼんやりと当たる照明、凍りついたような静けさをもつ舞台に浮かび上がるそれら生活の跡が、違和感と共に幻想的な姿を作り出している。

風琴工房のお芝居は、この舞台美術からも容易に思い至るのだが、全体を通して「イメージ先行型」の印象を受けた・・・それは物語や台詞といった詩森ろばが描いた言葉を舞台という場所にどのように起こしていくのかという、演出のスタイルに関しての印象である。
彼女が書く言葉は、常に対話という構図を持って描かれていく・・・人間の関係性を手掛かりに、時にはそれすらを道具として用いて、死刑囚の男や死刑を執行する男、更にはその死刑囚の娘など、さまざまな人間の感情と想いを描き出していく。
とはいえ、そこには会話という方法論を徹底しようという意図などは全く無く、どちらかといえば会話らしくない会話、独白的に詩的に・・・その応酬を会話的に見せている。
リアルな会話なるものは、イメージ先行な舞台とは大変に相性が悪い・・・単純にリアルと非リアルの折衝になってしまうからだ・・・その点、対話というスタイルを持ちつつもイメージに裏打ちされた舞台が成せる風琴工房の本質とは、会話にカムフラージュされたモノローグ性にある。

それは逆説的に言えば、モノローグ性が薄くなればなるほど、舞台との親和・バランスが崩れてくる事を意味するだろう・・・今回の舞台でも、主人公と追っかけ男のなどの単純なる会話に落ち着くと如何にも舞台から浮いている気がしていた。
私的で詩的な言葉を対話に載せる・・・その時にその対話の情景は視覚・聴覚などのあらゆる感覚にとって詩的イメージへと昇華されていく・・・風琴工房の難しさは、その叙情詩的言葉と社会的なテーマのバランスなんだと思う。

今回の舞台で言えば、死刑囚の男の時代とその娘が父の影を探す時代・・・この2つが単純な意味でバランサーの役割を果たしており、イメージ先行で徹底的に詩的であろうとする死刑囚の時代は、美しくはあるが難解であり・・・それに対して現実的で社会という構図を配置した娘の時代、人間関係を主体に対話で展開する仕組みは理解はし易いが長ったらしい。
前述のシーンは、男が殺した女との対話であり、モノローグ性豊かに叙情的で大変魅力的であった。
対して、後述の流れでは常に対話の構図を採り、しかもリアルっぽくするが為に情報量は薄く散漫的に、一言で言えば長くなってしまっていた。
死刑囚の娘と死刑執行人の男という2人の感情を描く為に、それぞれ2人ずつ「外部説明役」が登場するのだが、そこまで出してくる必要は無かったのでは無いかと・・・1人ずつで十分かな?。

人を1人多く出すと、結局意味付けやら動機付け、起承転結してやらなくちゃならなくなるので、余計なエピソードが増えますからね。
先に示しように、風琴工房という集団が、対話に潜むモノローグとそこから生まれる詩的イメージを売り物にするならば、もっと安易なリアルは削った方がバランスが良くなるのではないかと・・・。

終結に向かって娘の時代が父の時代に吸収されていく・・・そこからは一気に叙情詩的イメージ、作家の観念の世界に入り込んでいく。
そこからは否応無く引き込まれていきましたね・・・驚きというよりは、プロフェッショナルな上手さを味あわせてもらった気がします・・・全体的にクオリティーが高くて上手いのです。

黄色っていうのは、普段身の回りにある色じゃないからですかね?・・・かなり気味が悪くて鳥肌ものでした。
全体的には好きなテイスト・・・次回公演も観にいこうっと。

 →演劇ポータル「劇人」は演劇と観客を繋ぎます。

posted by yositosi at : 23:02 | コメント (1) | トラックバック (0)