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2005年09月27日

10月のミタイ!イキタイ!キタイ!ブタイ!

9月26日~10月10日
拙者ムニエル『FUTURE OR NO FUTURE』at新宿THEATER TOPS
http://www.sessya.com/

10月4日~7日
うずめ劇場『レオンスとレーナ/ねずみ狩り』at theatre iwato
http://www5d.biglobe.ne.jp/~uzume/

10月5日~10日
メタリック農家『仮』atウエストエンドスタジオ
http://www.metanou.com/

10月6日~9日
桃園会『paradise lost, lost/うちやまつり』atシアターグリーン
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/5931/Pages/frame1.html

10月6日~9日
少年社中『リドル』at青山円形劇場
http://www.shachu.com/

10月6日~9日
イデビアン・クルー『迂回プリーズ』atパークタワーホール
http://www.idevian.com/

10月6日~10日
はえぎわ『Mジャクソンの接吻』atザ・スズナリ
http://haegiwa.net/

10月7日~10日
アートネットワーク・ジャパン+Ort-d.dプロデュース『サーカス物語』atにしすがも創造舎
http://sozosha.anj.or.jp/topics/200508_01.html

10月13日~16日
衛星『珠光の庵』at裏千家東京茶道会館
http://www.eisei.info/

10月13日~16日
木佐貫邦子+neo『ダンスの場所 Vol.7 リンクするソロ』at駒場アゴラ
http://www.kisanuki.jp/

10月14日~16日
弘前劇場『FRAGMENT 刻印』at pamplemousse
http://www.hirogeki.co.jp/

10月14日~16日
踊る演劇小ネタ集団アトリエサンクス『ベターランド2』atタイニイアリス
http://www.occn.zaq.ne.jp/thankbox/

10月14日~20日
シベリア少女鉄道『スラムダンク』atシアターサンモール
http://www.siberia.jp/

10月14日~28日
鹿殺し『エデンの穴』atゴールデン街劇場
http://shika564.com/indexpc.html

10月20日~23日
オールツーステップスクール『ラブストリームス・ノートブック』at三鷹市芸術文化センター
http://homepage3.nifty.com/alltwostep/

10月20日~24日
ロリータ男爵『信長の素』at吉祥寺シアター
http://www.lolidan.com/

10月27日~11月8日
猫のホテル『ウソツキー』atザ・スズナリ
http://www.nekohote.com/

この他、今月のお勧めのお芝居などありましたら、メールやコメント等でお知らせいただければと思います。
皆様の今月の観劇体験が素晴らしいものになることを期待しています・・・もちろん自分自身も・・・。

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2005年09月25日

とくお組『インドのちから』

池袋の出来たてホヤホヤの劇場シアターグリーンに今週2回目のお出向き・・・とくお組の「インドのちから」を見に行ってきました。
今回が初見の劇団でしたが面白かったです・・・開演前の映像でインド人の女性が前説しているところから馬鹿らしさが伝わってきて、その段から期待の持てる舞台でした。
蓋が開けてからも終始笑いの絶えない舞台・・・素直に楽しんで、楽しむだけ楽しんで、楽しんだらスッキリして帰路につける・・・良い舞台だと思います。

それと、一番初めにちょっとだけ言っておくと舞台美術がなかなか凝っていて、インド料理屋さんの雰囲気、厨房の雑然とした状態の再現・・・大道具の構成から小道具の仕込まで、2000円の芝居の概念を遥かに凌駕するクオリティー。
あの舞台を準備するだけで、かなりの労力と金銭が使われたのではないかと・・・立て込みに粗はあるけど、小劇場であれだけやってくれれば一級品でしょう。

物語は2つのインド料理屋を巡るちょっぴりSFなインドの潜在能力にかなりフューチャーした作品・・・2つのインド料理屋さんっていうのは、1995年のインドの料理屋さんと2005年の日本のインド料理屋さん、この時間的空間的な距離をインドパワー、実際には幻のスパイスやサイババの力で乗り越えてしまうお話。
インドへの愛情に満ち満ちた内容とでも言いましょうか・・・なんで今更インドやねん!っていうツッコミを入れたくなるのですが、その辺は作家のセンスということにしておきまして、限りなく馬鹿馬鹿しい物語に笑うのが疲れるほど笑わせてもらいました。

特筆するべきは脚本の良さですかね・・・先に記した舞台美術もそうなんですが、脚本の出来、もっと詳細に言えば笑いの作り方とでも言いますか・・・そういうネタの扱い方は目を見張るものがあった。
インドという何で今さら?的な題材な訳ですが、「力の衰えたサイババ」を登場させたりして、ちょっぴり懐かしくて、サイババブームの顛末に触れさせてもらえた気もしたし・・・。
そのサイババそっくりの日本の料理研究家を出すっていう発想もなかなかなものではないかと・・・それがタイムスリップしてきたサイババとドタバタ入れ替わりっていうのもコントの王道的なものながらやっぱり面白い・・・観客の期待を裏切らずに、観客の期待を超えてくれる・・・安心して観られるお芝居。

まぁ一番笑ったのは、サイババの力が無くなったのはモジャモジャのカツラをずっと前後逆に付けていたというやつかな・・・センスが良すぎる、面白すぎた。

登場人物は全員男性、彼らが1人2役などをやりながら、2つのインド料理屋が展開されます。
上下二段に組まれた舞台で、料理を作り、中に浮き、時にはモンスターに殺されながら、縦横無尽に笑いを生み出していく・・・学生劇団的な爽やかさに包まれた力技満載のお芝居という感じですかね。
やっぱり、役者には弱さを感じざるおえない・・・下手に感動とかメッセージを織り込んでいないので、その弱さが致命的になる場面はないので、別に今のとくお組という劇団にとっては大した問題では無いと思うし、長編コントであり、且つ、ノリを売りにする劇団としてはその弱い役者陣も魅力にも思える。
このお芝居を見て役者がヘタだという結論で締めくくる人がいれば、それはきっと一方的な決め付けみたいなもので、全く持って本質を見失った意見だろう・・・そんなことを言い切れるぐらい、この芝居の役者達は役者としてとくお組らしい、そんな事を初見ながら感じてしまえる・・・そんなメンバーだった。

とはいえ、お芝居が上手い事に越したことは無いと思うので頑張って欲しいですが、それ以上にとくお組のメンバーがとくお組の芝居を楽しくやれる事っていうのが一番大切なんじゃないかな。
楽しんでいる役者っていうのが舞台から溢れていた・・・そういうのは決して見ていて心地の良いものである・・・加えてちゃんと面白い芝居なんだから文句は無いな。

真面目な話をすると、役者として魅力的で上手いのはサイババの鈴木規史さんぐらいかな・・・あとの人は魅力はイマイチ、だってイケメンだから・・・。

>>おはしょり稽古
ドリフターズってのは全くもって言い得て妙・・・面白ければお芝居なんてヘタクソでも良いんだよってスタンスはビタリと当てはまると思いますね。
舞台の切り方と使い方も、8時だよ全員集合的な感じで、その中で動き回るのなんか当に!って感じかもしれません。
でも、お芝居に出ていたのは6人ですね・・・きっと。

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五反田団『ニセS高原から』

駒場アゴラ劇場にて・・・「ニセS高原から」という企画ののラストを飾るのは、本企画の立案者でもある前田司郎さんの五反田団「ニセS高原から」でした。
この企画も残すところ4劇団1回ずつという事になりました・・・さて、最優秀賞はどこが獲得するんでしょうか?ってそういう企画じゃありません。

五反田団は今回で2回目です・・・前回のキャベツの類では、人間の内面というか幻想というか・・・ある意味では悪夢的な物語の広がりを持った作品でしたが、今回は「S高原から」という平田オリザの戯曲をベースに常に現実という表層を保持し続けていました。
しかしながら、そういう中にも前田司郎という作家の視点、というか趣向のような、言わば生活スタイルが組み入れられており、且つそれがサナトリウムという場所性と齟齬を持たずに展開され、程よく親和していたように感じられました。

やはり、この「ニセS高原から」という企画の立案者ということもあって、原作の戯曲と自らの芝居との接点を一番明確に持っていたのではないだろうか?。
そして、その上で体良く作り上げる自信がそもそもあったのではないか?そんな事を感じさせる良作だったように思う。
まぁ、言い換えれば一番そつなくこなした芝居だったと言うことも出来てしまうわけだが、まぁそれも五反田団らしさと言えてしまう気もするし、その過不足無い感じは青年団らしくもある・・・企画者らしく、企画者らしいデフォルトな作品に仕上がっていたんではないだろうか?。

そもそも、サナトリウムという場所は、五反田団が持つ引きこもり的な視点思考との非常に近いイメージを持つことが出来る・・・まぁ言わずもがなだが、両者の閉鎖性は病的であるし、外部との接触に関してアンバランスな関係を余儀なくされる。
五反田団が技巧的に利用するそういう性質のようなものが、サナトリウムという場所には多少形は違えでも備わっているのではないだろうか?・・・この舞台からはテクニカルにそれらを使いこなしていく前田司郎の上手さが見てとれた気がする。

例えば、幕開け前からの発掘と称される行為・・・サナトリウムという場所のロビーらしいパブリックなスペースで行われる「楊枝で床の溝を掘る」なる陰気な設定は、五反田団らしい視点であると同時に、パブリックな部分にすら浸透する強烈な引き篭もり性、サナトリウムという場所を喚起させるに十分なメッセージと状況設定力を有している。
パブリックにプライベートという事で言えば、先のポツドール版では性の問題がプライベートとして扱われて導入され、結果としてサナトリウムらしさからは離れていった気がしたと書いたが、五反田団ではサナトリウムをサナトリムらしくさせるプライベートが展開され、故に「S高原から」と五反田団が程よく親和したように感じられた。

劇の内部に話を移していこう。
前の方にも軽く記したが、この戯曲には内部と外部という全く異なる世界と人達が対峙させられている・・・その状況に触れておりに、前田氏は一番初めにサナトリウムという内側を五反田団というスタイルを展開させる道具に設定し、外部を当に五反田団の外部として置き換えた(外の方法論であり青年団?)。
サナトリウムの中の人たちは患者から看護士までどこかオカシイように見える人達で溢れている・・・そこから笑いは生み出されるし、そしてまた病的に映る・・・そしてそれは、五反田団らしいテクニックである。
だから、全体的に生死の意味に置いてではなく、演技として活き活きしていたのはサナトリウム側の人間だったように感じられる・・・外部からの人たちはどうも全体的に影が薄めな気がした。
サナトリウムに来る人間が活き活きしていたら嘘っぱちな気もするけど、まぁそういう意味ではなく何となく活きていなかった・・・五反田的視点から見るからそう映るだけであって、普通な芝居なら普通に見えるのかもしれないが・・・。
だからこそ、そこには明確にサナトリウムの内部と外部でアプローチが異なったと考える方が自然であり、サナトリウムの物語としての五反田団の方法論は彼らをマイナスな方向に活き活きと描き出すことに成功している・・・と言い切ることも可能だろう。
サナトリウムという閉鎖された空間、そしてまた生と死、病気と隣り合わされた世界の退屈な日常はこれぐらいが丁度いい・・・そういう事を思わせてくれた。

五反田団から離れて、この企画について1つの視点を明確にしなければならないと思いついたので記しておく。
それは、この企画を「S高原からをどう料理するか?」という視点で見るか、「どんなS高原からができるか?」という視点をとるのかという2つに見方が分かれるという点である。
簡単に意味合いを述べれば「方法」で読み解くか「全体」で読み解くか・・・ということになると思うが、なぜこういう事を書くつもりになったかというと、WEBなどの議論を読むにあたって「方法論」の論議に終始している人が多いように感じられたからだ。
「S高原から」という原作をどう演出するか?という企画なので、方法論に注目が集まるのは仕方が無いことだし、それぞれの劇団のスタイルが差異化されたのは良かったのでは無いだろうか・・・ただし、個々の作品が個々として上演に耐えうるものだったかというと疑問が残る。
差異化が目的の企画ならば、少なくとも2つ、全部見てこそだし、オリジナルも是非目に入れておきたいしするべきなのだろう・・・とはいえ、もはやこれだけの作品を見て回るのはもう既に演劇に入れ込んだ人たちのアプローチだし、目が肥えている人たちの方法論だ。
この企画で作品全体の完成度とかの話をするのはタブーなのかもなと思ってしまったが、敢えて全企画を観賞しての印象を述べておくことにする。

制約がきつ過ぎて方法論議に終始してしまったのは回避できなかったことなのかもしれないが、そういう論議を凌駕する傑作が無かったのは残念に思ってしまうのだが・・・。
あ、そうそう三条会だけは別枠扱いのつもりです・・・あれは傑作だから・・・(方法論=全体なんで)。

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posted by yositosi at : 17:31 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年09月24日

蜷川幸雄『天保十二年のシェイクスピア』

渋谷はBunkamura:シアターコクーンにて「天保十二年のシェイクスピア」を鑑賞してきました・・・いやぁ4時間ってのは長いです・・・帰ってきたら次の日でした。
この公演は、蜷川幸雄とシアターコクーンがともに戦い挑むNINAGAWA VS COCOONシリーズのファイナルで、集大成に相応しく超豪華メンバーで華やかにというのがコンセプトだったようです。
「天保十二年のシェイクスピア」は劇作家・井上ひさしさんの74年初演の作品・・・シェイクスピアの全作品が巧妙に組み合わされ、舞台を日本の江戸時代に移しての傑作・・・なんだそうです。

実は、今日の公演では井上ひさしさんが観劇されていたんですが、普通に開場前に列に並んでいたんでビックリでした・・・公演中でも私の席からすごい見やすいところにいたので、当の本人が何処で笑うのか気になってチラチラ見てしまいました。

詳細は後日にします・・・もう夜遅いので。

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posted by yositosi at : 23:23 | コメント (0) | トラックバック (0)

ポツドール『ニセS高原から』

駒場アゴラ劇場にて「ニセS高原からの連続上演企画」の3作品目、ポツドールの「ニセS高原から」を見に行ってきました。
三条会・蜻蛉玉と連続で鑑賞してから、かなり時間が空いてしまったのですが、今日と明日でポツドールと五反田団を見て本企画の全てのグループを鑑賞済みとなります。
途中時間が空いてしまったのですが、まぁ良かったかなぁと思っています・・・企画が企画なだけに、何作品も連続で見ると「場」に飽きてしまう可能性があったかもと今日の鑑賞中に思いました・・・出来れば明日の五反田団も先延ばししたいなぁって思ったけど、まぁ行ってきます。

作品の比較は連続で見たほうがし易いのかもしれないけど、「場」に飽きると正常に鑑賞できなくなる可能性があります・・・結果として正しい比較ができなくなるかも・・・全く同じ舞台で繰り広げられる舞台ですけど、今日は新鮮な気分で観られました。

ポツドールに関する論評では「言葉の使い方」っていうところに視点が置かれる事が多いですよね・・・私も以前の論評では言葉に触れさせて貰いました・・・まぁ前回は肉体に焦点が行ってましたけど・・・。
今回の作品を見ていて気が付いた事・・・それは、ポツドールがやっているのは「気まずさの演劇」なのではないかと視点だ。
「気まずさの演劇」、言い換えれば「沈黙の演劇」なんじゃないかと・・・その引き立て役としての「言葉」がそこにはあった・・・ひとまずその視点で論を展開したいと思う。

「気まずさ」や「沈黙」という言葉は、言い換えればそこに漂う空気を見るような時間のことである。
ポツドールがもっとも見せようとしているもの、それはそういう人間関係の中にある沈黙の時間であり空気なのではないだろうか?・・・そういうことを今回の舞台からは感じるに至った。
往々にしてフューチャーされる「口語の言葉」や「前景される性」などは「ポツドールの表現技法」であっても「ポツドールの本質」ではない・・・それらは単に、「声無き空気感」を劇中に生み出す為に用意されている装置にしか過ぎないのではないか。

人間の関係性の中に生まれる「沈黙」、この「沈黙」ほど恐ろしいものは無い・・・だから人は執拗に会話をする、それはただひたすらに無音を避ける為の行為であってそこには会話としての価値は薄かったりする。
ポツドールの役者が発する観客にも聞こえないような会話は、もはや内容には意味が無いことを明らかにさせ、積極的に音としての価値を拡大し、無音を埋めるための行為として前面に押し出されている。
そうやって積極的に埋め合わされる無音の先には、逆説的に強調されるそれが見えてくるような気がする。
そして、どうしても埋め合わせる事が出来ない「沈黙」には、多くの場合において感情的な流動が巡っており、観客は沈黙という空気の中にそういう言葉にならない感情の台詞を見つめようとする・・・ポツドールの舞台では、この「無音の情景」に限りなく感覚的なリアリティーを入れ込む為に、逆説的に「性」や「力」という身体的リアリティーを前景させているのではないか?。

そういった身体的なメッセージはまた、感情面での大きな揺れ動きを生み出す・・・先ほども述べたように、人間の内側にある感情面の葛藤は「気まずさ」を生み、「沈黙」の空気の温床となるだろう。
そして、結果的にそこには舞台空間を覆う無音のリアリティーが生まれる・・・。

それらのポツドールが仕掛ける装置の数々は、椅子に横たわる男のケツに刺さった扇子にリアリティーを与え、エンディングへと向かう舞台上の空気に緊張感をもたらし、暗転の直前の一瞬に日常への回帰を突きつける。
つまり、洗練された終末に向けて前半に仕掛けられる装置こそが、ポツドールの方法論であり、その結果が本質である・・・ということだ。

今回は劇中に感じた「声の無いシーンの秀逸さ」というところから議論を拡張してみた。
これによって、ポツドールの舞台が最後のシーンに内包する空気感に多少言及することが出来た・・・それを本質であると言い切ってしまうのは言い過ぎなのかもしれないが、この辺りは今後の議論に残しておこうと思う。

さて「S高原から」との関わりについて全く言及していないのだが、一言だけいうならば「ここは一体何処だよ」という感覚である。
これはポツドールの方法論がどうのこうのではなくて、素直にサナトリウムという場所と登場人物の立ち振る舞いが最後まで私の中で溶け合わなかったという事だ・・・これに関しては、物語がどうのこうのよりも個人的な常識との齟齬があまりにも大き過ぎたという個人的な問題による。
溶け合わないというのは、素直にリアリティーが感じられない、物語として立ち上がらないという事とイコールだ。
サナトリウムではなくて街のどこかの情景なら素直にも見れようが、今回は難しかった。

ポツドールの方法論が前景化されるという意味では大変分かりやすい企画であり、作品であるとは言えると思う・・・もしも平田オリザやポツドールという冠も無くて今回の作品を見ていたら「なんじゃこりゃ!」と言ってしまう自分がいる気がする。

>>現代演劇ノート~〈観ること〉に向けて
平田オリザと三浦大輔の相対化・・・青年団とポツドールの相補性について・・・。
私とは違って、S高原からとニセS高原からという2つの舞台を中心に論を展開されています・・・私の文章は個人的感覚に端を発してそれで終わってしまっているので、物足りない人はこちらをどうぞ。

>>Johnの日記
アフタートークの内容を丁寧に書きあげて、その中で自分の言葉を添えておられます。
この企画ではアフタートークを積極的にされてたのですが、日程的な都合で一度も誰のアフタートークも聞かずに終わってしまいました。
ちゃんとアフタートークの回に行けばよかったなぁ・・・このようにアフタートークを載せて下さる方がいるので助かります。

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2005年09月23日

イベント『吾妻橋ダンスクロッシング』

浅草はアサヒアートスクウェアにて、企画・構成の桜井圭介さん主宰のイベント「吾妻橋ダンスクロッシング」を見に行ってきました。
劇団からソロのダンサーまで・・・舞台芸術で活躍する様々な方々を一堂に介してのイベント、この企画力、構成力には頭が下がる想いです。
だって、私が見たいと思っていたいろいろな劇団・パフォーマーが一気に見れてしまうんですから・・・これで学生2500円はかなり安いと思いましたね・・・7時半開演で終了したら10時過ぎ、その時間量から見てもどれだけ濃いものが展開されたか想像できるのではないでしょうか・・・。

残念ながら前売りは完売のご様子・・・当日券でも購入出来ずに帰っていく人々もいらっしゃったので相当な数の方が当日券を求めたご様子、立ち見もかなりいたので数自体は多く出しているでしょうけれども・・・急遽明日!という方はお早めに行くのがよろしいと思います。

今回は普段の演劇レビューとは形を変えて、1つ1つの作品を箇条書きにする形で、此処にも・・・そして私の頭ん中にも記録していきたいと思います。

●男子はだまってなさいよ!「ヘソを当てる」
初「男だま」でした・・・ブリーフ一丁の男どもと最近活躍著しい五月女ケイ子。
家族の団欒風景でダンスについて話をしようということになるのですが、なんだかグダグダに話は進みます・・・タイトルは「ヘソを当てる」ですが実際には「ヘソで当てる」でしょう。
ダンスの話をしていればダンスのイベントに出られるというのは、ある意味でダンスという言葉の持つ意味を拡張していて興味深い・・・というのは嘘。
笑いの形は「異形の日常」とでも言うべきもので、異質な世界が日常に覆い被さることによるおかしみで笑いを作っている感じ。
テレビで作家をされている細川徹さんが作・演出ということでテレビ的瞬発力は確か・・・変な人たちを見て、笑わせてもらっているというよりは馬鹿さ加減を笑っているに近いか・・・。

●ボクデス「チマチマダンス・コレクション」
テレビでは何度か見ていて気になっていたボクデスさん・・・生は初めてです。
チマチマなダンス・・・というかパフォーマンス、アートを標榜しているけれどもその根底には「笑い」が流れている。
笑いって芸術として評価される為の究極の近道かも知れませんね・・・芸術一本で行こうとすると圧倒的なセンスと技術力を獲得して、多くの人々を乗り越えていかないといけないけど、「人がやらないことをやる」のが裏返ってセンスがある!となればそれはもう評価された芸術なんですから・・・。
ボクデスがやっているのは、センスのある笑い・・・かなりラーメンズに近いです。

●康本雅子「Honeymoon」
うさぎ耳の帽子を被って怪しげなダンス・・・そこにあるのは壊れた可愛さとでも形容するべき姿。
可愛らしさを装う帽子や、ダンス相手としてのダッチワイフを取り入れて、舞台の上に可愛くてエロくて俗っぽいというキッチュな空間を生み出す。
康本さんの華奢な身体から放たれるダイナミックな動きは、それ自体がそういう様々なテイストを既に宿しているかのように見える・・・存在そのものが俗悪なる身体。
自らの武器を完璧に知覚して、存分にその効力を発揮している・・・男どもは殺られるのみ。

●丹野賢一/NUMBERING MACHINE「017-SPEAKER」
無機的な想像が彼のパフォーマンスの根底を完全に支配している・・・ダンスを、身体を利用して生きていることを謳歌する方法論だとするならば、NUMBERING MACHINEの作業は「生」を削ぎ落としたところに見えてくるイメージに近い。
拡声マイクを用いて拡大される唸り声は、生体の声ではなくて死体が腐る音に近い・・・顔に巻きつけられたベルトは崩れ落ちるその体を繋ぎとめているようであった。
その不快感こそが有機体が無機物に侵食される時の不安とイコールなのではないだろうか。

●黒沢美香&ダンサーズ「接吻」
カメラという物が生まれて間もない頃に撮影されたセピア色の写真から切り抜かれてきた人々、人としての振る舞いを失った人々は、まるでねじ式の人形のように見える。
そんな物達の振る舞いは、ある一定のリズムをもっている・・・そして、そこにある規模を組み上げる事でダイナミックな群像が浮かび上がってくる。
幻燈の映画を見ているような空気感が広がっていた・・・不可思議な身体とセピアの風景、タイムスリップしているかのような時間的倒錯・・・心地よい。

●KATHY「MISSION/Az」
黒のストッキングで顔を覆い金髪のかつらを被った素顔の見えない女性3人のパフォーマンスユニット・・・彼女達のダンス、というかパフォーマンスは「ダンスという仕掛け」を発火させる大変貴重な試みだった。
それというのも、彼女達は会場から次々と観客を拉致し、自分達のパフォーマンスに組み込んでいく・・・参加などという生易しいものではなく、部分としてである・・・見本となる1人の動きに合わせるように全体が1つのリズムを刻む。
その見本となる動きの作り方が完璧だった・・・徐々に躍動感を増していき、最後には余韻を残さずにきっぱりと切られる・・・舞台が完璧に終わると観客は完璧に感情を解放するんだ、そんな事を確認することも出来た。
ダンスには言葉が無く、演じ演じられるの関係は限りなく密接である・・・逆説によるダンスの存在証明、そんなパフォーマンス、素晴らしかった。

●チェルフィッチュ「ティッシュ」
初めてのチェルフィッチュ・・・次回公演は必ず見に行くつもりだったが、今回の作品でその雰囲気が掴めて次の公演が更に楽しみになってきた・・・どうも今まで風の噂にチェルフィッチュには疑心暗鬼だったので。
ティッシュ配りの風景のようだ・・・ダンスなのか演劇なのかというと演劇、青年団役者が踊る訳も無く、やはりそれは演技なのだが、演技というには雑感が強い。
ノイジーな身体性と言うらしい・・・方法論は一目瞭然であったりする・・・私の興味はこの動きなるものがどのように生み出されていくのか、そしてこの動きはどのような物語と親和していくのかという事にすぐさまシフトしていった。
次回本公演が本当に楽しみである。

●丹野賢一/NUMBERING MACHINE「011-DOT」
こちらの作品は、ドットに彩られた空間でのダンス・・・とはいうよりも身体の解放ともいうような動き。
楽曲にあわせて体を躍動させ、そしてまた地面へと堕落させる。
無表情の顔からはやはり、無機的な生命力の無い物質としての身体が浮かび上がってくる・・・当に機械としてのそれであって、数字として羅列可能な物質なのだろう。

●康本雅子&山縣太一「Washing Machine」
登場人物は、当日MCのタイチーさんと新作の洗濯機アラエールである・・・身体に洗濯機を表象させ、洗濯から乾燥までをこなす康本。
先の作品とは違って、グロさでは無くてカワイさ前面に出した作品、洗濯機という道具の真似をする幼い少女のようなあどけなさ・・・また彼女の違う一面に魅了される。
スラッと細い彼女の体には、少女と妖女の2つが共存をし、それらが様々なバランスでもって表出する行為をダンスと呼んでいるような、そんな魅惑の時間だった。

●男子はだまってなさいよ!「一本さん」
男子はだまってなさいよコントの2本目・・・ダンスについて話そうとすればそれはもはやダンスなのか?そんな問題提起型の作品だった・・・嘘。

●ボクデス「ラ・ラ・ラ・脚立・ステップス」
脚立を使ったパフォーマンス・・・体よりも大きな脚立を一生懸命扱っての試みは、身体の極限なる酷使と共に繰り広げられるわけで、それによって身体性が浮かび上がってくる!というのは間違いだと思う。
見ているこっちが痛くなる出し物の数々、私たちは笑ってはいるが、笑わないと痛いものを見ているだけになるので一生懸命笑う・・・そんな雰囲気だった。
痛くないのかなぁ・・・ボクデスさん(思い出しただけでも痛い)。

●黒田育世×松本じろ「モニカ モニカ vol.2」
松本じろさんの生演奏に合わせての超長い圧倒的な身体の躍動の連続によるダンス。
ダンスというものが誰のためにあるものなのかという事を最後の最後に明示してしまったのかもしれない作品・・・ダンスはダンサーの為であり、きっとダンサーが一番の消費者なんだろう。
演劇には物語という全体性があるから、ある意味でその全体を消費できる観客の為にあると言えるが、ダンスには全体性の概念が薄く、どちらかというと部分の総和な表現である。
部分が全てであり、全てが部分ということならば、その部分を生み出す表現者がその部分をもっとも強烈に感じる存在なんじゃないだろうか・・・見ながら、かなり冷静にそういう事を感じた。
それは、黒田育世が踊る姿があまりにも強烈で観客の我々を置いて行くように感じられたからだ・・・彼女はあの瞬間に一種の悦楽に落ちていたのではないか・・・そう思えたダンスだった。

ということで、全部の舞台に関して私なりの感想を述べさせてもらった。
ダンスという表現に関しては、まだまだ情報不足だし、言葉にならないものを言葉にする能力が果たして自分の中にどれだけあるのか分からないし、今回のものもどれほど適切なのかの判断もいまいちだ。
というわけですが、イベント自体は大変面白いもので鑑賞できて本当に良かったと思いました。

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Afro13『Death of a Samurai』

新宿はタイニイアリスにてAfro13の公演「Death of a Samurai」を見に行ってきました。
この作品は、昨年にイギリスのエジンバラ・フリンジ・フェスティバルで5つ星をもらった作品なんだそうです(満点は何星?きっと5つ星・・・)、その作品の再演でキャストを一部変更しての公演のようですね。
外国で高い評価を得て戻ってきた作品・・・見に行かないわけにはいきません!!。

直前に制作者支援サイトfringeのトピックで「言い値販売」の報道を見て、それなら是非使ってみよう、面白そうだし・・・てな具合で今日はその「言い値販売」で行ってきました。
一番最初に言っておきますが、当日券などで席が満席になってしまったら言い値チケットは買えません・・・今日の感じだとほぼ満席でした・・・言い値で買っている人は皆無です。

イキナリお金の話というのもどうかと思いますが、前売り3000円はちょっと高いんじゃないのかなと感じました・・・劇場とか芝居の内容・出来から鑑みると2000円なら全然満足、1500円なら安い!って感じじゃないですかね?。
ちなみに私は通常チケットの半額で見たんですが「全然安く見れた!」と思えるお芝居でした・・・もし今後このお芝居を「言い値販売」で見てみようという人がいましたら参考にどうぞ。

5つ星は嘘じゃないっていう舞台、WEB上のレビューでもかなり高い評価をされている同作品ですけど、本日見て確かに「面白い」と思えたので・・・もっと正確な言葉にするなら「ある意味ウマイ」って感じかな?。
Afro13が言い値チケットなんていう販売を試みたのも、そこには絶対の自信と作品を多くの人に見てもらいたいっていう想いがあってのことだと確信できました・・・この作品は、堂々と外に出しても恥ずかしくもなんともない作品と言える。
たった1時間の舞台ですが、Afro13のやりたい事が詰まった舞台・・・新宿にお越しの際は1時間30分だけ時間を作って見に行かれたら如何でしょう?。

さて、上に書いた「ある意味ウマイ」ですが、どういうつもりで書いたのかと言いますと、決して上手いとは言えない様々な部分も、海外に向けた作品という点においては「上手いと言わざるを得ない」・・・ので「ある意味ウマイ」のです。
さてその上手さとはどういった部分のことか・・・。

一言で集約すれば、そこにあるのは「観光型演劇」でした。

この作品はイギリスへ赴いている訳ですが、現地でのイギリス人による日本の文化への接触は広い意味で観光であり、そういう異文化の人の為にある種迎合的な手法で自国の文化を魅力的に扱う表現内容、それを「観光的演劇」と名づけてみました。
観光という文化的接触における興奮と弊害を、様々な策略で切り開いている作品・・・それはテキストや演出はもちろん照明から音響、衣装・・・全てといっても言い過ぎではないように思います。

このお芝居を見ている最中に、私は昔韓国に旅行した時に見た「NANTA」を思い出していました。
この作品には、台詞らしきものは無く登場人物の仕草とキャラクターだけで物語を見せていきます・・・物語は単純、時間までに料理を作れ!・・・命じられた時間までにコックは料理を作ろうとしますが、材料がなかったりなんだりで全然料理が出来ません。
包丁のリズムやパフォーマンスで観客は盛り上がります・・・観客は日本人とかアメリカ人が多かったように思いましたが、老若男女が驚喜している舞台は大変印象的でした。
そういう舞台に時々韓国伝統文化の出し物が混ざってきたり音楽が流れたり・・・お客さんはお芝居を楽しみながら韓国文化にも触れてしまう・・・そんな観光型演劇でした。

Afro13の「Death of a Samurai」からは似たような臭いを感じました・・・日本語の台詞が少なく、その代わりに英語が使われる点は言葉の壁の問題をクリアさせますが、同様の理由でシェイクスピアのロミオとジュリエットや真夏の夜の夢というストーリーを様式として組み込む事で、単純な物語を印象付けています。
加えて日本文化のデフォルメを扱い、ある意味で外国人のイメージを刺激する・・・サムライというモチーフに始まり、着物やセーラー服という衣装のリミックス、能や天狗の面を付けての妖艶なシーン。
日本の様々な伝統・文化からアニメ・ゲームというサブカルチャーまでをごちゃ混ぜにしてエッセンスだけを抽出して作った麻薬・・・外国人にはこの雑多が効いたとみえる。

観光型演劇だから悪いと言いたいわけではない、むしろ積極的に観光型演劇であろうとする強い思惑が今回の舞台に限れば心地の良いものであった。
「ある意味ウマイ」のは、外国人の為の観光に焦点をあて、日本人の為の舞台をきっぱりと捨て去ったその意思とセンスに送りたい言葉である。
この舞台の価値は、異文化的接触の際には、芝居中の高揚感に加えて「異文化に触れた」という教養的な価値という点において高いものになるかもしれない・・・しかしながら、我々日本人にとっては観劇後に振り返ってみるとそこにはさほど魅力的な何かは残っていないのだ。

それはまるで、日本の文化たるテレビゲームに興じている感覚・・・プレイしている最中は時間も忘れて熱中してしまう程の刺激に満たされてはいるが、一度時間となり電源を切れば余韻に浸る事も無く・・・ただ願うのはもう一度電源を入れる事だったりする。
そういう強烈な刺激のみがその舞台にはあった・・・その刺激を求めてまた見る人もいるだろう、しかし刺激だけでは唯一無二には成り難い・・・何しろ日本という国には、刺激が溢れているのだから。

「観光型」を自負して突き進むのは良い手かもしれない・・・舞台表現の1つの形かもしれない。
でももし、日本での知名度、または評価を望むのであれば、刺激だけではない魅力が必要なのではないだろうか・・・刺激には飽きが来るし、刺激は溢れているから・・・。

とはいえ面白い舞台だったし、そのひと時を楽しむにはもってこいの舞台だ・・・今回は海外仕様の舞台だったと思うので、次回以降の日本仕様の作品がどんなものか楽しみである。

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2005年09月21日

innerchild『遙(ニライ)』

吉祥寺シアターにてinnerchild(インナーチャイルド)の第10回公演「遙(ニライ)」を見に行ってきました。
innerchildは舞台だけではなくて、テレビや映画でも活躍されている小手伸也さんが作・演出をしている劇団。
第10回公演が7年越しということなので回数をこなしているという感じでは無いですが、多方面に忙しいであろう小手さんが、焦らずに良い物を作ろうというスタンスで行っているのであろうことが伝わってきます。
制作準備期間が長い為か、作品は総じてクオリティーが高い印象を持っています。

今回の作品は、琉球とアイヌという2つの地をあの世とこの世という対比に置き換えて、2つの地に相互の依存関係を付加しています・・・それはまるで鏡像のように、「この世のあの世は、あの世のこの世」という言葉の成立を意味し、またこの物語の核心となるコンセプトになっています。
前回作品の「青ゐ鳥」では、古代と現代を相互依存関係に置く事で物語に時間的な距離を与え、連綿と繋がる日本人という流れを見せることに成功していました。
それに比べると今回の作品は、空間的距離に着目して、それぞれの地の風習を対比させながら語ることで、日本人としての原風景を創出していたといえるでしょう。

「青ゐ鳥」が日本人という時間軸を語る男と女、親と子の物語だとすると・・・「遙」はもっと内部の、心性や神性、風習や習慣から原日本と現日本を描き出す物語と読み解くことができる。
この公演の企画書の中にも記されているが、上記のような意味で、2つの物語は時間と空間という極々真っ当な2つの切り口によって描かれた対の作品であると見える。
作家の小手さんは、「日本人として」というキーワードに今強く心引かれているという事・・・「今はまだ前哨戦なのかもしれない」という言葉を記しているので、今後も展開していくことでしょう・・・大変楽しみです。
そうですね・・・私が見たいと思うテーマは「天皇」かな・・・民族まで話が来ると次は天皇なんじゃないかと・・・。

公演の内容に話を移していきましょう。
インナーチャイルドのお芝居を指して、エンターテイメントという言葉を与えている文章が多いのだが、その本質をエンタメの言葉で片付けてしまうのは勿体無い気がする。
この舞台は、完璧にエンターテイメントの殻を被った叙事演劇と言えるだろう・・・緻密な歴史・文化の調査は仮想の時代を生み出し、作家の誇大妄想はそこに仮想の歴史を紡ぎ出す・・・。
今回で言えば、琉球とアイヌの文化風習と背景に、あの世とこの世を行きつ戻りつする人と魂の物語という舞台。
その風景は観客にとってはもはや歴史絵巻であって、言葉は叙事詩となる。
何故そう考えるか・・・まず1つに緻密な調査がされ、その上に作家性が付与されている点である・・・ただのフィクションではなく、事実の突飛な組換えによる歴史や神話の偽造行為と考えることができるからだ。
歴史や神話が真実ではなく作られた物語であるという事を考えれば、小手伸也が描く物語もそれの代替になりうる・・・それを受け入れられるか出来ないか、それを判断するのは読者であり観客であり、その判断基準となるのは「そうであると提示されて説得されるかされないか」きっとその程度のものだと思う。

インナーチャイルドの舞台にはその「なんか説得されてしまう理屈」が埋められている。

そこにあるのは日本の歴史であり神話であり、この舞台は叙事演劇なのである。
歴史・神話とは偉大だな・・・この舞台を振り返るとそんな事を考えさせられる。
映像や音楽は魅力であり表現方法でしかない・・・大いに惑わされる観客であり、見誤る特技を持ち合わせるからこそエンタメとして受け入れられるし、こんな無謀な言葉を受け入れられるのだろう。
本気で読み解こうとすると、この舞台にはあらゆる説明されない部分と繋がらないエッセンスによって構成されていることが分かる・・・その不用意さは驚くほどだ、しかし観客はなんとなく受け入れるし、感銘すらする。
それが、人間・民族にとっての歴史や神話のもつ力なのかもしれない・・・そして、それと同等のものがあの舞台にはあった。

とんでもない嘘つきの物語は、圧倒的な説得力を持ち出すことで、偽装の歴史に昇華されていった・・・近年の演劇周辺から眺望してもこの手の物語と諸策を用いているところは無いのではないだろうか?。
エンタメの殻を被ったインナーチャイルドは、実のところ古代の物語を誇大で生み出す希有な劇団なのではないだろうか・・・エンターテイメントというにはあまりにも勿体無い、今後も本質を凝視していきたい。

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2005年09月20日

ジャブジャブサーキット『しずかなごはん』

池袋のシアターグリーン小劇場にて、劇団ジャブジャブサーキットの「しずかなごはん」を見に行ってきました。
シアターグリーン柿落とし公演であり、また第17回池袋演劇祭参加公演でもある今回の公演は、昨年末に行われた公演の再演・・・劇団内からの再演の要望やさまざまな思惑が相俟って、早い時期での再演に漕ぎ着けたようです。

そうそう、シアターグリーンの柿落としという事だったのですが、大変素敵な劇場が仕上がりましたね・・・さまざまな形態の劇場が1つの建物に入り、相互協力の下にそれぞれの公演が打たれる。
新しい演劇の発信地になってくれればと期待します・・・新しいコンセプトの劇場が作られるというのは、演劇界にとって良い刺激になるんでしょうね。
頑張って欲しいです。

私が見に行った回は、オリジナルバージョンでした・・・今回はバージョン2005という事で一部ダブルキャストのニューバージョンだったようです。
まぁ今回は初見だったのでオリジナルバージョンで良かったかなぁと・・・WEB等で過去の公演のレビューを見て回ってみると作・演出のはせひろいちさんの脚本に対する評価が顕著であるように感じられました。
評価の高い脚本を、オリジナルの役者が再演にあたってより深く広く読み解くことで更なる良作に発展しているのでは・・・そんな期待を胸に出向いてまいりました。

結論から言えば、脚本の技巧に優れているという印象は確かにあった・・・構成に関する独特な趣向、台詞回しの風変わりさ。
そして、それを舞台上に書き起こす演出の特異な印象・・・物語を丁寧に描きながらも、その中に独特な雰囲気を挟みこんでいるというスタンスは、特異であるし、ジャブジャブサーキットという劇団の立派なアイデンティティになっていたように感じた。

そしてまた、他のレビューでも記述されているように、その上質なジャブジャブの脚本を自らの言葉にしきれていない役者の存在にも言及しなければならないだろう。
役者がその世界に生きていない・・・台詞を噛むのが1度や2度なら許せもするが、全体的に噛み芝居になっていたと思う・・・そこにはただ噛んでしまったというよりも、その役を体内に憑依で来ていない、そして芝居がその物語世界に憑依されていない感じだった。

全体として、物語との乖離の印象を受けた・・・今回の舞台は、摂食障害の女性達と積極的にその問題に取り組む病院という関係を借りて、積極障害に対する様々な意見を入れ込んだ意欲的な作品という事は分かった。
しかし、そういう病と患者、そして医師という構図からある種のリアルは全くもって浮かび上がってこず、チープな再現VTRと共に行われる教育ビデオのようなテイストであった・・・演劇がドキュメント性を持つとどうしてもそうなってしまうのではなかろうか?(はたして)。
私自身は摂食障害に関する知識も殆ど無ければ、現場や患者の現実を知っている訳でもないので、細かな指摘はできないのだが、お芝居としてみた時にはそこからはメッセージが一方的に放たれるだけで物語が浮かんでいないのだ。
一つ一つのメッセージには胸を打たれるところもあるし、共感だってする・・・思い知らされることだってあった・・・でも全体を俯瞰するとどうにも解せない弱さがある。

役者の弱さ、台詞を言葉にして世界を自分のものにすることができていない・・・大きなポイントはそこだとは思う。
だけれども、その問題点の裏側には脚本の問題も含まれているのかもしれないという考えに行き着く。
確かにはせひろいちの脚本からは独特な雰囲気と技巧的な台詞作りの上手さを見出すことはできた・・・しかしながら、それらは今回のようなドキュメンタリーに近い内容を含む作品にとっては使いようによっては異物なのかもしれない。
フィクションの作品を大いなる発想と想像によって組み上げるならば、作家のセンスは如何なく振るわれるだろう・・・私が感じ取った作家の面白い部分は、そっちに期待を持たせるものだった。

今回のような、社会の側面を切り抜いたドキュメント性を多く含む作品では、ところどころに入る独特な演出や笑いは面白くは映るものの、総合的な観点からみると違和感を持たざるを得ない。

総じると、役者の弱さというのが一番初めにあるのは確かである。
そこに加えて、今回は語った物語もジャブジャブサーキットらしからぬそれだったのではないか・・・初見の人間の勝手な想像ではあるが、私はそんな印象を持った舞台であった。
是非次回は、よりフィクションによった作品で、作家や役者の力量を感じてみたいと思った。

>>しのぶの演劇レビュー
前回の公演の際のレビューですが、読む限りでは今回のと大差ない芝居だったのではないかと思われます。
全体的な地味さは私の言うところの弱さという部分に繋がるのではないかと・・・そして、別の劇団の役者が演じるとより見ごたえのある作品になるのではないかという指摘があります。
確かに・・・この濃くて静かな舞台を魅力的にさせられる役者が演じるとどうなるか・・・見たい気がしてきました。
あ、でもでも客演の更紗さんは良い雰囲気だったです・・・注目役者に登録です。

>>藤田一樹の観劇レポート
藤田さんは今回の公演を鑑賞されています。
脚本の魅力、そこから放たれるメッセージもあくまでも自然に、そして分かりやすくて良かったという判断のようです。
全体的に満足できる舞台だったみたいですね・・・私も全然満足できていないわけではないんですけど、どうも違和感が観劇後に付きまとった感じで、それを何とか言葉にしてみました。
今回の公演は、ネットを散見する限りそれなりに評価されているようです・・・うーん、千秋楽が良くなかったんかな?。

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2005年09月19日

ユニークポイント『脈拍のリズム』 

下北沢OFFOFFシアターにて、ユニークポイントの「脈拍のリズム」の千秋楽を見に行ってきました。
TOKYOSCAPEという東京発京都終着の小劇場劇団の交流フェスティバルに参加することになっているということで、それだったら是非とも事前に観賞しようと考えていましたので、今回はかなりの期待を持って劇場に赴かせて頂きました。

作品としては、ある賃貸アパートのダイニングで描かれる幾つかの「死」との関わり方を巡る物語。
この部屋の持ち主である夫婦の娘が、物語の前半で車に轢かれて死んでしまう・・・そこに居合わせた後輩夫婦、女の子を轢いていしまった女と婚約者の男、加えて保険屋・・・。
女の子の死を巡って交錯する様々な「死の概念」とその内部処理の方法が、幾つかの場面の中で対立という構図の元に描かれていく。

「運命」や「偶然」・・・「現実」か「非現実」か・・・言葉では決して言い切ることが出来ない「死」という問題に対して、それ関わる色々な人間がそれぞれの言葉でその死を処理しようとする。
その1つの処理のやり方が、また別の人間にとっては残酷であったり無意味であったり・・・受け入れ難かったり面倒くさかったり・・・そういうそれぞれの考え方を巡る対立が、下手な偽善ではなくてグロテスクな人間の本質を抉り返すように表現される。

だからこそ、時に胸をチクチクと刺すような嫌な気分に襲われる・・・その感覚に潜んでいるのはリアル指向ではなくて、演出家の観客に向けた過剰なサービスの結果なのでは?と思われた。
その過剰サービスこそが、人間の本質を明確に誇大にする・・・それによって観客にとって分かり易く、対立というこの舞台の本質の境界線を際立たせるための作だったのであろう。

しかし、この対立の構造は、決して1つの明確な答えに向かっていく訳ではなくて、それぞれの論が常にその舞台空間に渦巻くだけ渦巻いていき、そのままあらゆる提示をしたままで終焉していく。
物語は物語の形を成さず、各論は議論まで高められることは決してない・・・考えの対立によって舞台の構造の全てが組み立てられ、組み立てられたままに終わる。

唐突にやってくる「死」は、決して解決処理されることは無いのかもしれない・・・この対立のまま終わる舞台からはそんな感覚を覚える。
それは、根本の部分に「現実」であり「非現実」という矛盾を抱えてしまっているからなのかもしれない・・・つまり、結局のところその上での議論は矛盾の上での議論であり、それ自体が矛盾を含み込む。
だから、決してそこからは真っ当な1つの答えなど生まれはしない・・・全てが正解で不正解・・・そんな言葉が今回の物語を総括することになるのではないだろうか?。

もしも、たった一つだけ答えがあるとしたら・・・それが「母の涙」・・・そういうことなんじゃないだろうか?。

こういうことを書いてきたが、上記の文章はこの公演の最後の最後のシーンを全く無視した形で書いていることを明記しておかなくてはならない。
そのシーンは、ある意味で物語に終止符を打つものであったのであるが、今回の舞台作品でそのシーンが必要であったのか、それ以上に意味があるのか、そういう事を考えさせられるという意味で問題のシーンだったと思う。
私の個人的な意見を言わせて貰えば、あのシーンは必要で無かったし、意味があったものであったとも思えないのだ・・・それが何故かということは上記の文章との関係で考えれば明らかなので大いに語ることは控えるけれども、少なくともそういう意味であのシーンは不必要だったと考えざるおえない。

常に対立構造であった物語は、対立の構造を維持したままで終わりにさせるのが潔いのではと思うのだ。
あの最後のシーンの瞬間に、あの舞台作品は1つの物語を含むものにはなったのかも知れないが、それは対立を主に描く事で浮かび上がる「死を巡るメッセージ」からは一気に遠ざかったしまったように思う。

果たしてどちらが表現者の意図なのかは明確ではないが、1人の観客として、そこには無意味なものを感じたし、残念ですらあった・・・直前に大野由美子さんの素晴らしい母親としての1つの答えを提示した瞬間があっただけに、あそこで終わらなかったのは心残りであった。

観客が観客の中に葛藤の渦を作り出し、自分なりの答えを見出す為の舞台・・・それが今回のユニークポイントの作品だった。
リアリティーを追求するわけでもなく、人間の感情を薄い被膜同士の擦れだけを表現する割り切った演出・・・場面展開のやり方にそういう意図は明瞭に出ていると思いましたね。
内容的には重い作品でしたが、そういう作品の切り口としては新しいものを垣間見た気がしました・・・今回は娘の交通事故という実世界に近い脚本でしたが、この独特の切り口をより総作世界にシフトして、物語的な魅力の中で展開することが出来れば、劇団の味になるのではないかと思いました。
今回の物語では、切り方の面白さしか見出せないので・・・そこにプラスアルファがあるとより切り口が引き立つのではないでしょうかね・・・そういう意味で今回は玄人向け?。

>>Wonderland
山関英人さんの批評が載っています・・・結末に対する疑問という形で結末の解釈をされています。
私とはまた違った理論で答えを探っているので、ぜひこちらもご覧ください。

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2005年09月16日

自転車キンクリートSTORE『ウィンズロウ・ボーイ』

六本木の俳優座劇場にて、自転車キンクリートSTOREのテレンス・ラティガン3作連続公演の第1弾、坂手洋二演出の「ウィンズロウ・ボーイ」を鑑賞してまいりました。
鑑賞した方からの強いお勧めがありまして、予定を急遽入れ替えたりしての鑑賞・・・結果、見ておいて良かったと思える上質な舞台作品に出会える事が出来ました。

日々、なんか変な舞台ばかりみているので、大きな劇場で座り心地の良い椅子に座りながらの安心して見られる作品は、なんか懐かしくて癒される思いがしましたね・・・あまり内容とは関係ないですが・・・。

作品は、ウィンズロウ家の居間から切り開かれる公と私の抗争模様・・・正義と正しい事という言葉の使い方がその関係を表象していき、その2つの言葉がこの物語の関係を表している。
そこに入ってくる人間の様、関係・・・一家や弁護士、婚約者という多くの立場の人間の感情が入り乱れ、その中でお互いを拒絶したり理解しようとしたり・・・だけれどもなかなかにそういう事は上手く行かない。
そこには、人間の外側の立場と内側の思いという難しい側面を持っているからである・・・現代よりも、内と外の境界がハッキリしていた時代、そんな時代の内と外の葛藤によって組み上げられている物語。

ウィンズロウ家の息子の罪を晴らす為の裁判をテーマにした物語ではあるが、その裁判のシーンは一切描かれること無く、全てはウィンズロウ家のリビングで行われる。
そこには家族の風景があり、夫婦の姿があり、姉弟の会話があり、恋のやり取りがあり、弁護士の罵声がある。
そういう様々な立場の人間が、立場と内心を切り替えながら少年の勝訴という目標に向かっていく・・・そのプロセスの中で、公と私、さらには正義と正しい事という言葉で言い表されるような幾つもの対立が描かれるのだ。
それは自己や他者との間で繰り広げられ、それを乗り越えることによってどんどんと目的は明確になり、また更にその人という枠が明瞭になる。

3時間近い舞台作品であり、自己と他者の理解などという難しいことを書いているが、この舞台作品の上手さは、そういう説教臭い部分、言い換えれば面倒な部分を裁判というエンターテイメントの一種に組み込んでしまっている点であろう。
ハッキリ言ってしまえば、裁判の経過なんていうものは物語の大筋には大きく影響を及ぼすほどのものでもない・・・確かにそれがあるからこそ様々な対立や展開があることは事実だが、ときどき入る裁判の状態の情報は決して必要ない。

必要なのは、裁判をしているという事と最後の結果ぐらいなものだ。

ただし、観客はそれら裁判の経過に注意深く耳を傾ける・・・それがエンターテイメントでありゲームのようなドキドキを与えてくれるものだと知っているからだ。
裁判の展開が物語に加速度を与え、観客をその流れに引き込む・・・裁判というフィルターに目を奪われている観客は、実は自分達が家族劇を見せられていることをフッと忘れてしまう。
そこには、なんともありふれた家族の姿があるだけなのに・・・人々は法廷での白熱したやりとりを夢想して一喜一憂をしているんだ。

そういう見せ方の上手さ・・・脚本の秀逸さ、真っ当な上手い物語を見せてもらった気がする・・・しかもそれは舞台作品としての上質な物語だ。
今から60年以上も昔・・・演劇が今よりもずっと大衆文化であって娯楽であって情報源だった時代、そういう時代の良質な物語。
家族と社会という大きさの違う世界を1つの接点で繋いでしまう・・・当時の演劇が持たなければなら無かった社会との関わりの形が、いかなる構造で果たされていたのか・・・その答えの1つの姿を見られた気がする。

今回の作品の演出は燐光群の坂手さんだったのだが、大胆な演出を加える訳ではなく、殆ど原作のままに当時の芝居の雰囲気をここに再現しようというアプローチは見事に上手くいったのではないだろうか?。
テレンス・ラティガンという作家の作家性を見ることを可能にした・・・ラティガン祭りに相応しい演出だったといえるだろう・・・。

本谷有希子の芝居でも活躍した馬渕英里何さん・・・今回の舞台で全く違った役どころに挑戦していたのですが、その存在感はやはり確かなものがありましたね。
婦人参政権を主張する新しい女性という役を魅力溢れる立ち振る舞いと共に、まさに自分の言葉にしていたそんな風に見えました。

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2005年09月14日

仏団観音びらき『女殺駄目男地獄』

新宿のタイニイアリスにて、仏団観音びらき第5回公演「女殺駄目男地獄」(おんなごろしだめんずじごく)を見に行ってきました。
この作品はアリスフェスティバル2005参加作品、月曜日・火曜日・水曜日というかなり無茶苦茶なスケジュールでフェスティバルらしい変則的な公演でしたが、果たしてどれくらいの方が見に行かれたのでしょうか?。

私はチラシを初見した時から気になっておりました・・・最近この手のアングラ臭のする劇団にアンテナが反応している気がします。
演劇の形を借りて、世の中の煩悩と戦い続ける集団・・・という仏団というジャンルを提唱する彼女ら?の「自虐的ナンセンスコメディ」というのを体感してみたかったのです。

内容は、「目覚めよ!」というだめんずに魅了される女性に対しての警笛を再現VTRを通して鳴らしていくという構成。
全部で3つの駄目男に嵌ってしまった女の物語があって、それに付随してCMやらゲストやらがちょこちょこ挟まれていくという感じで、まさにテレビ番組のスタイル。
全体的に盛り沢山だった事に鑑賞後に気が付く・・・全く退屈せずに見ていたので、時間を全然気にしていなかったのですが、終わって時計を見たら2時間近く経っていたのです・・・振り返ってみれば、まぁ確かに濃い時間だったと。
テレビの構成を採用して、一言に集約すれば「コント集」というスタイル・・・歌あり!踊りあり!露出あり!極上のエンターテイメントというのは言い過ぎですが、極楽浄土のエンターテイメントって感じですかね(イミワカランチ)・・・思考停止で素直に楽しめる。

多々面白いシーンはあったのですが、凄い印象に残っているのは「♪引越し!引越し!さっさと引越し!引越し!の歌に合わせた引越し屋さんのCM」と「駄目男に振り回されて今はレズのダメン塚歌劇団のみなさん」ですかね・・・両方とも小ネタでしたが、小ネタだけに威力がありました。

という仏団観音びらきですが、主要構成メンバは女性という異色劇団。
それだけに、今回の作品も女性中心の女性による舞台エンタメでしたね・・・女性がこういう狂った作品を狂った演出で狂って演じるのは、男性の私からすると新鮮でまた魅力的だったりします。
そういう作品というだけで、一定水準を越えるエンターテイメントになってしまう・・・男性の作品だとそれなりの出来を期待してしまうのに、女性のそれでは女性というだけで数段甘く見ている自分がいる。
性別で作品を見るのではなくて、質で判断しろとも自らに問い掛けたりもするけれども、それができない自分がいるし、そんなことはしなくても良いと思ってしまうのである。

それが女性の特権であって、魅力でもあったりする訳だから・・・私はその辺は敢えて否定せずに、大いに性差別していこうと思うのです。

作品のクオリティーは、正直言って低いだろう・・・脚本も全体としては面白いものであったとは思っているが、途中はダラダラとした長さも感じたし、だったら2時間という尺ももっと短くなったであろうと考える。
今は、コント集であるからある種の出来の悪さすら含み込んでのそれという感じもするが、これが1つの長い物語になっていくと多少なりともより明確に問題点として脚本や台詞の弱さが出てきてしまうのではと危惧する。
自虐的を主張する劇団ということで、脚本や役者の不得手な印象も自虐的に一役買っている気もしてくる訳ですが、今回は初見で且つコントだと考えたので微笑ましく見れるものの次回も同じような作品ということになればもっと難しくなるかと・・・。

今回が第5回公演ということでまだまだの仏団です・・・単にこの劇団の魅力は自虐性だと思うので、成長には脚本・役者は勿論ですが、その自虐性のより過剰な方向へのレベルアップであると・・・。
物語性にウエイトが変わってくるならその通りではないにしても、今回の路線が以後も続くのであればより過剰に過激になることを期待して止みません。

そしてそこには限界がある・・・そこに物語が入り込んでくるなら、新たな地平もあるだろう・・・そうなった時には、もっと正当な評価もできるだろうし、脚本や演出、役者の力量が如実に効いてくるようになるだろう。
どちらに進むのかは別に私がどうのうこうの言うべき部分ではないけれど、より長続きするのは後者のはずで、それは劇団としてもお客にとってもだと思う。
今回は確かに面白かったし、ちゃんと笑わせてもらえたので悔いは何一つ無い・・・ただし、次回も必ず見に行くかと言われるとう~んと唸ってしまう。
そこにはやっぱり、コントを見せてもらったという感覚、一回きりのその場限りの楽しみを楽しんだという満足感があるからだ。

脚本、演出、役者・・・個々の魅力に欠ける、もっと見たいという欲望が弱い。
見たくない訳じゃない、見ても良いけど、絶対とは思えないでいる自分がここにいる・・・今回はそんな感覚をスタートに文章を書いてみた。

前回公演のDVDが東京・大阪の2枚組みで1500円という破格値・・・一瞬欲しいと思ってしまったのだが、自己を制して手を引っ込める。
買っているお客さんはいたし、劇中の客席の雰囲気も良かった・・・劇場のお客さんにはそれなりに好評だったのであろう。
私も、なんかクオリティーの低さを中心にマイナスな事を書いたが、面白い舞台だったし、今後に期待もしている・・・ただ何故かあまり長続きしないような臭いがしたので、敢えて私が思う長続きの為の施策を書いてみたのだ。

人に大いにお勧めする舞台ではない・・・が、ちょこっと楽しみに行くのは良いと思う・・・極楽浄土のエンタメだった。

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2005年09月07日

ジンジャントロプスボイセイ『ユビュ王』

横浜のBankART1929ホールにて、ジンジャントロプスボイセイの「ユビュ王」のショーイングを観て参りました。
ジンジャンは今年の秋にドイツとポーランドで公演を控えているそうですが、それに向けての公開リハーサルを4日から6日にかけて、そしてショーイングという名での公演を本日1回きりという形で開催されました。

ジンジャントロプスボイセイは今回が始めての観賞でした・・・本日の公演はリハーサルの集大成という感じでしたので、ジンジャントロプスボイセイのエッセンスは感じられるものの、これが本気のジンジャンである!というところまでは出ていなかったのではないかと感じました。
とはいえ、本公演を見たことがありませんので、比較検討ができないのが残念であります。

HPにも記載されている通り「おおまかな出来上がりの状態を、主に演技と音楽を中心にご覧いただきます。 」という内容だったと思います。
アーティスティックな舞台構築を試みている集団ですので、そういう独特の雰囲気というかセンスというか・・・そういうものは醸し出されていましたが、やはり総合芸術という域には達していなかったように思います。
魅力的だった演技・演出、そして衣装や小道具使い・・・そこに加わる生演奏の音楽、この音楽はBankART1929ホールの特色である反響がかなり効いていて荘厳な印象を持ちました・・・ユビュ王という作品にとってこの音楽とBankART1929ホールという場所は良い選択だったのではないかと感じましたね。

とはいえ、その反響の効果が役者の声にも如実に効いてしまっていてなかなか台詞が聞こえづらい・・・場所的に仕方が無いのかもしれないのですが、その点は残念でありました。
BankART1929ホールという場所が持つ静謐な空気と反響する構造は、今回の作品にとって演出面では多くの意味を持ちプラスに働いてはいたものの、技術面では聞き辛いや演技が散漫になるなどのマイナスを持っていたのではないかと感じました。

とはいえ、BankART1929ホールという特殊な空間とユビュ王のコラボレーションには、意図と意義が確実に介在していた・・・それを楽しむことは出来ました、ただしそれはそれらの完全なる結実というわけではなかった。
是非とも完成形を見てみたい、という欲求と不満をもたらすショーイングでしたね・・・特に今回は一切考慮されていなかった照明に関しては心残り。

舞台前方にはマイクが設置されており、ユビュの唸りとも言葉とも判断の付かない声が増幅され劇場空間に拡散するというシーンから始まる。
こういった演出も劇場空間の理を最大限に生かしているものと思われます・・・その部分にどこまでメッセージが入れ込まれているのかは定かではないのですが、ユビュという人間がどのような存在なのか、吐き出される気持ちの悪い音と共に彼が設定されていく。

ジンジャントロプスボイセイの作品は、この言語発声に関係して独特なイメージを持っているようだった。
幾度もフィルターを重ね合わせ、本来の言葉や音を不可解なレベルにまでぼかす策・・・観客はその加工された音声に対して、時に漂うように聞き入れ、時には何としても読み解こうという積極的なアプローチを行う。
その行為は、観客を言葉に対して不用意にする事を拒み、常に前のめりに舞台を見る目線を齎すだろう・・・。
そしてまた、言葉は音へと変換されることで、舞台の物語の語り部の任を解かれ、音という要素に還元される・・・ジンジャントロプスボイセイはその音を道具として使い、集合を1つのオブジェとしてそこに設置する。
そこにあるのは、音のイメージであり、視覚で捉えるべき芸術となる・・・額縁に収められる1つの絵、それがジンジャンの舞台。

とても分かりやすかったのは、地位の描き方だ・・・当に絵的に分かりやすく、立っている場所がその人間の地位であるという書き方だ。
ユビュよりも下の人間は、ユビュよりも小さく低い位置に・・・より高い地位の人間は高く、そして大きく。
奥行きのある舞台を利用する事で相対的なサイズの違いを生み出していましたね。

絵画的な舞台を徹底している・・・その中に紛れ込む滑稽な笑い。
今回に関して言えば、それらが絶妙に組み合わさってすばらしい作品になっていた!とは言い難いが、まぁそれはリハーサルだったわけでまぁ仕方が無いかと・・・是非完成作を見てみたいですね。
日本で凱旋公演が行われることを期待いたします!。

>>漂泊する思考空間
同様の公演を観劇されていたようですね。
「wonderlandでもおなじみの北嶋孝さん」という書き方をされているので、北嶋さんとの交流もあるのでしょうか?。
膨大なテクストがWEB上で展開されています・・・劇評に限らず気になるサイトです。

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2005年09月06日

クレネリZERO FACTORY『なみだくじ』

下北沢ザ・スズナリにて、クレネリZERO FACTORYの第7回公演「なみだくじ」を観に行ってきました。
作家の大岩真理、演出担当の高井浩子(東京タンバリン)・・・そして主宰の本多真弓、という3人体制が現在のところは確立されている模様、劇団プロフィールを見ると今までにいろいろと紆余曲折しているみたいですが、今は落ち着いて1つの方向に向けて動いているようです。
彼女達によって描かれていく世界はクレネリワールドと呼ばれているそう・・・果たしてどんな世界観がそこには広がっているのでしょうか?。

プロデュース形式の劇団で、且つ演出も作家も主宰も別々・・・小劇場では中々珍しい形ではないかと、大きな劇場のプロデュース公演みたいな体制。
役者や作家、演出・・・などなど、多くの人たちの客観的な視点に耐えて生まれてきた舞台がそこにもしあったとしたら、それはきっと普遍的に「いいもの」なんじゃないかと思います。

というわけで、台風近づく雨降りの中、下北沢はスズナリ劇場に足を運んで参りました・・・クレネリ・ゼロファクトリー、初鑑賞です。

面白かった・・・素直に面白い舞台だった。
そんなに笑わなかったから、きっと笑える面白さじゃなくて、脚本の良い舞台だったんだろうな。
あみだくじに準えた感情のやりとり、5人の登場人物の感情の糸があっちへこっちへと移り変わりながら、それぞれがそれぞれの答えのところに落ち着いていく、その移ろい方がリアリティーとはまた違った情景を使って描かれるわけですが・・・でもまぁそんなもんかなと納得させられる丁寧な脚本。

ちょっと突飛な登場人物達で、浮世離れといえばそんな感じなんですけど、そんな人たちの感情が丁寧に語られるから、なんとなく受け入れてしまえる・・・そんな作品。

全体的に女性中心な物語です・・・物語のメインもそうだし、心理描写も女性の方がありありと見えてくる感じだった・・・空虚な感じとか、幸せあり方とか・・・女性の感性で女性の物語を書く、下手に乙女チックじゃないのは好感が持てる。
もう少し表現をキツクすると本谷有希子が見えてくる・・・そんな舞台やった、人間の設定なんか似てるんじゃないかな、浮世離れしているとこなんか・・・性に対してもっと明確に提示できるようになったらもっと近づくかな・・・。

まぁ、近づけば良いってもんじゃないので・・・この辺だから女性のお客さんが多くいられるのではと思うし。
あ、女性のお客さんが凄い多かったように思いました・・・一応ご報告。

ロシア民謡の「一週間」という曲が物語全体を覆い尽くす1つのメッセージとして横たわっています。
そんな単調な一週間に対して「これが私の1週間の仕事です」なんて自慢げに言えるなんて信じられないといった内容の一言が舞台の中でも語られるのですが、そこに登場している人物は自分の生活に対して何らかの問題を抱えて、自らの答えを求めて彷徨っている人たちなんです。
簡単に言えば、「一週間」の歌詞のように日々を謳歌できていない人々の集まりなんです・・・そういう人たちが、今自分が持っているものと相手が持っているものを交換することで空白を埋め、自らの居場所に落ち着くという命題がある。

その持っているものが、お金であったりペンネームだったり、旅館や亀、空虚・・・そんなそれぞれが持ち合わせているものを、あみだくじみたいに誰だどれを受け取るのかはわからない訳ですけど、そんな構図を人間の会話で描いてって、最終的に交換によって解決する。
交換じゃなくて、結局自分のところに戻ってくる人もいるんだけど、その頃にはそれはまた自分にとって違う意味をもっていてそれを受け入れる事で心は満たされるようになっている。

そういう過程の中に、自殺の名所の森やと父親を殺した妄想、自分の母親に火をつけた元彼、火事以来開けてない納屋に仏壇を作ったやらなんやら・・・かなり明確でダイレクトな死のエピソードが備えられていて、一見アイデンティティーとか自分探しみたいな話とは離れていそうなんだけど、そういうのを適度にオブラートに包みながら、強引にだけど繊細に自己を解決する為の動機付けに利用してしまう。
このギャップの距離感が、この芝居の面白さであって、それがクレネリワールドなのかな?って思いました。

演出についても、舞台を見ていると人間模様を素直に描くありきたりな感覚を覚えるのですが、ふいに挟み込まれる毒気のある空気みたいのがまた舞台の流れを掴んでいて心地よかった。

そんなに感動的な訳でもなかったのですが、最後の方はちょっと目が潤んだ場面もあり・・・いや~なかなか面白くて良い舞台だった気がします。
普段、変な演劇ばかり見ているので、時折こういう素直っていう程でもないけど、人間模様のいい芝居をみると癒されますね。

書いてれば書いているほど、どんどん本谷有希子系の匂いがしてきて、我ながら良い指摘なんじゃない?って思ってしまったけど、実際のところは・・・どうでしょう。

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2005年09月05日

猫☆魂『神の領域』

下北沢の駅前劇場にて、劇団猫☆魂(ネコダマシイ)の第8回公演「神の領域」を鑑賞してまいりました。
この劇団の公演は初めての鑑賞でありました・・・ネットでの評判はそれなりだったという印象があり、前回公演もえんぺ等でよく名前を聞きましたので、じゃあ一度は見てみようかと・・・。

劇団演技者というテレビ番組がありますけど、その第1回は当劇団の「アンラッキー・デイズ~ナツメの妄想~」という作品だったそうです。
そうかぁ~それなりにメディアへの露出度もあるようで、注目劇団なんかなぁ~なんていう事前情報を仕込んで出かけていきました。

一番最初に核心の一言を述べてしまうと「この舞台が評価されるということは考え難い」という事です。
役者や脚本、演出から舞台美術まで・・・ありとあらゆる部分で評価できない舞台だった・・・これまでの舞台がどのようなものだったのかを知らないので、限定させてもらえば今回の舞台に誉め言葉を与える気にはならなかった。
これまで、それなりにネットを中心に名前を聞く劇団だったので注目をしていたのですが、この芝居をしているようでは今後は難しいのではないかと感じざるを得ない・・・今回のが特殊なのか、メディア戦略が上手いのか・・・この舞台からは後者の匂いがプンプンしたのだが・・・。

オープニングの映像は凄かったんですが・・・映像だけ・・・そのギャップからも何か怪しい匂いがしてくる。

こうやってそれまでの評判を頼りに観に行ったら全然面白くなかったっていう事が多いから芝居は難しいのです・・・今回学んだ事は、やっぱりえんげきのぺーじの一言レビューは信用してはいけないっていう教訓ぐらいか・・・。

物語は、近未来SF・・・灰が降り続け、人が住めなくなった世界を救済するために未来から過去へと機械人が送り込まれ、その機械人が現地の人と協力して未来を変えようとする・・・っていう内容。
とはいうもののですね、実は本質がまったく別のところにあることが最後の最後辺りの映像で語られる・・・その段階で作家の言葉が突如現れて「神の領域を侵犯してやる・・・おれはいつ死んでも恐くない!」みたいな内容が語られます・・・つまりですね、最重要課題は物語の筋ではなくて、どちらかというと何処まで神を冒涜できるかっていう作家の挑戦なんですね。
本の中では、人喰いとか同性愛、子殺しなどなど・・・まぁそれはそれは、冒涜的な行為がいろいろと道具として利用されて、それらが正当化される終末が描かれるわけですけれど、そこには何も無くて、ただ観客を物語的にも演劇的にも不快にさせるだけだった。

最後の最後の作家の言葉が余計だったと思う・・・作家の自己満足の世界に一気に転落していった。

まぁ、それまでも作家だけではなくて、全体的に自己満足な匂いはしてたんですが、その一言が決定的でしたね・・・自己満足は悪くないんですが、共有できないそれは独り善がりの趣向のようなもので決して表現ではない、それにお金を払う気はないのです。

脚本や役者などのポジションっていうのは、表現したいものがあって初めて明瞭になるものであって、それによって目標と道筋が定まる筈です。
今回の作品では、表現しようとしたものが作家の生き方みたいなのもので、極めて内輪であって自己の欲求の吐露でしかなく、そこには外部に放たれる意図がごそりと抜け落ちている・・・そんなところから表現の方法論なんてものは見えてこない。
芝居という表現が、作家の道具に成り下がっているのだから当然だろう。
そういうところから見えてくるものは、小手先の台詞や笑い、生演奏の無意味さ、厚みのないメッセージという上っ面だけの表現、というかテクニックでしかない。

作家から表現への情熱が見えてこない・・・テクニカルに芝居を作り上げてはいるけれど、中身が無い事はちょっと考えればすぐにばれるのだ。

当日の会場では、関係者席が後方にごそりと設けられ、一般の人たちは前の方に座ることになる。
ナイロンの長田奈麻さんが客演していたということもあってか、ケラさんが会場にはいたんですけどこの舞台をどう見たのでしょうか?・・・良い印象を持ったとは思えないけど・・・。
そういうところにメディア使いの上手さというかなんというか・・・関係者の中で上手いこと回れば作家としては満足なのかもしれないのですが、舞台好きとしては実力の伴わないそういう行為は逆に嫌な感じです。

とここまで書いてきて、明確にしておくのは今回の舞台が初鑑賞だったということです・・・これも出会いの運の悪さかも知れません。
今までは良い作品を書いてたのかもしれない、たまたま悪かった可能性もあります・・・(そうは見えないけど)。
私はしばらくは遠慮しようと思いますが、2年後位に名前が聞こえてきたらまた見ても良いと思います。

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posted by yositosi at : 17:07 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年09月04日

時々自動『music no music』

三軒茶屋にあるシアタートラムにて、時々自動の公演「music no music」を観賞してきました。
公演チラシには「音楽と非音楽によるミュージカルバラエティーショー」なる言葉が書かれております・・・音楽と非音楽によるって書いちゃうと結局それは「すべてであってなんでもない」ことになりはしないのか?なんて思っちゃったりもしました。

こちらの劇団?集団?はどうやらトキドキ公演をしているようですね・・・歴史もかなり長いようで、ヒストリによると、初演は1988年みたいです。
そんな時々自動・・・公演チラシに興味をもって、さらにWEBでそれを膨らませて、不意に出かけて行ってしまいました。
さぁて、どんなものを魅せてくれるのでしょうか?。

音楽にまつわる小さな作品のオンパレードステージ。
なんていうのかな・・・一言でまとめてしまうと「お祭り」、楽しむ為に見るっていう感覚よりも、参加することで何かを得る感覚にとても近い。
観客もオールスタンディングで、ステージとの境のないところでの鑑賞・・・というか参加。
ステージの中に入って踊っても良い時だってあるし、使ってない時はステージに備えられた台に座ってても良いとのメッセージが最初に語られます・・・緊張しているのはお客さんっていう指摘は正しい。
正直言って、やっている人たちが一番面白いんだろうなぁ~と思ってしまった・・・その感情って舞台として正しいのだろうか・・・?。
参加していればよかったかもなんてことも考えた・・・だって皆さん面白そうなんだもん、別に大変そうなこともやらされてないし。
あ、ちなみに物凄い数のボランティアパフォーマーがいました・・・ダンスの上手い方、楽器を演奏できる方・・・なんかすっごい雑多感の強いメンバー。

その雑多感なメンバーに負けず劣らずの雑多感漂うステージ・・・音楽演奏あり、歌あり、ボイスパフォーマンスやらダンス、演劇的なものからコントのような作品まで。
もう、ありとあらゆる小作品が継ぎ目無く無造作に展開されていく・・・ので、ハッキリ言ってもうなんだか全然取り止めの無い感じ。
まぁお祭りなので、ドンチャン騒ぎ的な趣向は仕方ないよねとそうそうに納得・・・何というのかな、20ぐらいの小作品の中に2,3個自分好みのそれがあればまぁそれで満足かな?そんな作品集。
それぐらいバラバラで、とはいえクオリティーに差があるという事でもなくて、どれもがその程度なのねっていう中途半端な完成度に支えられている印象。

ので、舞台としてはいまいちな感じだったんですけど、まぁなんとなく納得して劇場を後にしてしまった感じ・・・う~ん、イカンイカン・・・騙されるな!。

作品について1つだけ・・・1’33”についてというタイトルの作品があったのだが、秀逸な作品だった・・・タイトルからも分かるのだけど、ジョンケージの4’33”をパロディーして、1’33”の間何もしないという作品。
上手いと思ったのは、ただ何もしないのではなくて、1’33”について話そうとしている学者風の人が資料を探している内に1’33”経ってしまって、そこでお辞儀をして拍手喝采という設定。
う~ん上手い!・・・もう音楽なんだかなんだかさっぱりだけど・・・。

「music no music」というタイトルには、「音楽と非音楽」っていうの