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2005年06月30日

ルームルーデンス『処女戯曲・眠る男』

岸田理生作品連続上演シリーズと銘打ってイベントを行っている駒場アゴラ劇場に、シリーズ一発目ルームルーデンス「処女戯曲・眠る男」を観に行ってきました。

岸田理生氏は、1974年に寺山修司が率いる演劇実験室「天井桟敷」に入団、寺山との共作で戯曲「身毒丸」などを手掛ける。
84年からは岸田事務所+楽天団を主宰し、同年に上演した「糸地獄」で第29回岸田國士戯曲賞を受賞。
2003年6月28日に癌で亡くなる・・54歳。
そんな命日からスタートした岸田理生作品連続上演シリーズ、最初の作品は処女戯曲ということで、そこから遺作まで駆け抜けるという今回の企画・・・過去の世界を知る良い切欠ですので、できるだけ覗いてみたいと思います。

今回の作品は、雑誌「新劇」に掲載されたにも関わらず、長い間上演されず・・・10年後にかなりの加筆の末に始めて上演されたそうです。
今回は、その台本のラストに加筆を変更しての上演という事でした。

劇場に入ると、眼をパッチリを見開かせた役者達が掠れた声でお出迎えしてくれる・・・気持ち悪い。
舞台上には黒い木枠の箱が並べられており、これは天井桟敷が使う「無人島」という名の舞台美術なんだそうです・・・ここに座る15名?の登場人物、黒で統一されたデザインの衣装。
なんか・・・おどろおどろしい感じ・・・。

強烈な台詞と身体を基本として、そこに加わる力強い音楽と弱々しい明かり・・・によって構築された世界でした。
オープニングがカッコイイ・・・音楽の展開にあわせてマッチを照明にどんどんと台詞が移り変わっていくという演出は魔術的な世界を彷彿とさせます・・・マッチの匂いが嗅覚を通じて感覚を狂わせて、揺らめく火の中に物語を映し出すようでした。
これ以後にも、強烈なイメージを提供するわけですが、それらが台詞とそれを発する身体を基点に生み出されているということに注目したい。
つまり、イメージをビジュアルで書き出しているのではなくて、圧倒的な台詞が映し出す世界とその世界を体に纏うことの出来る力をもつ役者によって描かれる一連の物語・・・その物語の虚像としてのイメージが強烈なんです。
ですから、やはりイメージがどうのこうの言うよりは、台詞がどうのこうの言いたい。

台詞は凄かった・・・口語であることを排除して、徹底的に文語であって詩的な言葉を紡いでいく。
小説の「」で括られていない部分だけを読んでいく感覚だろうか・・・そういう感情の吐露を台詞として仕上げている凄さなのかもしれない。
口語演劇がリアルなのに対して、岸田理生の書く文語的な台詞は生っぽいのだ。
それは肌触りとか匂いとか、触覚が感じるリアリティー・・・それは演劇のリアリティーと言い換えても良いものかも知れない。
口語演劇の生ぬるさを露呈させるものともいえる・・・こういうカウンターカルチャーとしての演劇を観る時に、それらは離れているものではなくて、裏表として1つなんだなと思わされるのだ。
生温さの露呈のループ・・・それが文化なんだ。

そういうことを、こういう芝居を観るにつけ、思わされるのだ・・・芝居の面白さは、芝居を相対化し始めることで、より鮮明に明らかに、明確に明示されるものである。
だから、いろいろ見ましょう!!

演出も面白いし、役者も凄い人もいるし・・・こういうパワーが最近の巷の演劇にはね~よな~。
疲れそうだから、自分でやりたいとは思わないなぁ・・・きっと世の中の多くの劇人もそんなこと考えて、あまーい世界に逃げてるんだろうな。
からーい世界に挑戦する人、出て来いよ~~う!

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2005年06月29日

KERA・MAP #004『ヤング・マーブル・ジャイアンツ』

出来たばっかりの吉祥シアターに行ってきました・・・大学の近くに素敵な劇場ができて幸せ・・・後はラインナップに期待ですが・・・。
今日は、KERA・MAPの第4回公演「ヤング・マーブル・ジャイアンツ」を鑑賞・・・総勢35名?のフルキャストオーディションというビックリ作品。
有名、無名が入り乱れての狂乱舞台?というほどでもなく、35名を上手く使っているなぁ~という感動、コッテリだけどノドゴシスッキリというギャップ・・・人数が多い割には、全体を通してクールでした。

今回の舞台は、35人という役者の使い方、それと、その為の吉祥寺シアターの利用方法に尽きる。
ケラリーノ・サンドロヴィッチのチャレンジングなチャレンジは、35人という人間を動かすことに心血を注ぐことによって生み出されて、その為の物語を描き、その為の舞台を作るということに収束していったようです。
何しろ、35人にちゃんと台詞としての出番を作ることにトライしているそうですから・・・ひと言じゃないですよ、役名を与えられて見せ場を作るというのは、1人や2人なら物語的にもどうにかなりそうですけど、35人が喋る劇なんて・・・3年B組でも1クールはかかるっちゅうの!
というわけで、随所に必要の無い(ように見える)シーンが織り込まれて、本質的には2時間45分って長すぎやろ!っていう物語ですけど、まぁあれだけシーンを組み入れたらそれぐらいにはなるよな!
というか、あれだけのシーンを作っておいて、2時間45分で終わってるから凄い・・・飽きさせないはチープなので止すが、なんか濃厚な舞台なのに気を張らずに楽しめる・・・だから保てる。
35人を効率的に動かす為の設定としての劇中物語・・・うそっぱちのシーンが幾つも作られて、その中でキャラクターを消費していく、とはいえ無闇矢鱈というわけではなくて、ちゃんとそれなりの理由付けはされているようですけど・・・。

面白かったのは、舞台空間の使い方・・・吉祥寺シアターというまだ皆が使った事の無い舞台を、使えるところまで使った感があります。
キャットウォークも使えば、搬入口?も使う・・・あそこまで使ってもらったら劇場も嬉しいだろう。
パンフレット(素敵)には、ケラさんの台本の遅さが随所で語られていましたけど、だからこそできる役者や舞台の「流れ」を意識した物語。

その事で言うと、35人だからできる分裂演出には感動。
だって、35人いないと出来ないもん・・・これをやりたかったから35人だったのかぁ!と唸りたくなるほどの完成度、というか出来映え・・・舞台演出上、ここまで映えるあなろぐな手法はなかなか無いのでは?
だって、救急車で運ばれるシーンの分裂加減と展開のスムーズさといったら、そのアホっぽさに無性に笑えてしまう・・・そして上手いって思ってしまう。
機能美という言葉が似合う気がする・・・カワキュートなパンフレットの中にもあるけれど、観客にとっての見易さを実現させながら、劇としての利益も得てしまう。
最近見たい芝居では、見る人の事を考えてない舞台設計とか役者の動かし方が多くて、ちょっと気になっていただけに、パンフ然り舞台演出然りで明確に「舞台の見易さ」に言及しているのは、小劇場の世界から飛び立って兄貴的に小劇場を俯瞰している人の言葉としてありがたみすら感じるものだと思う。

舞台全体を通しては、ケラさんの昔の作品ぽさ・・・シリアスよりはポップでナンセンスな笑いの宝庫な舞台だと感じた。
スピード感もありましたね・・・それはシーンの切り替えの早さもさることながら、具体美術の無い舞台設計などからしても明らかである(少なくとも近作2本とはまるっきり違う)。
カラフルメリィでオハヨ!を思い出しましたね、舞台の雰囲気とかからは・・・舞台美術を考えても昔っぽいのかもしれません。
それが別に回帰しているということではなくて、今回は状況的にそうせざるをえないというのもあるかも知れないですが、ケラさんが一周して今また過去の手法の掘り起こしを始めようとしているのではないかというのは、健康の復活から考えても容易です。

昔っぽい作品でありながら、1つ気になったのは、ところどころで別役実的な笑いを感じました。
若手公演で、別役のすなあそびを演出していましたけれど、あのアプローチが多少なりとも劇作の中に影を落としているのではないでしょうか?
ポップさが中心のはずの彼の笑いの中に、ところどころクールでシュールなナンセンス笑いが埋め込まれていた気がして、終始、部分的に別役?って思いながら見ていました。

もしかしたら、男1、男2、男3なんて役名だったかもしれません・・・なんちて。

とはいえ、若い!!
今回の公演はこの若さ溢れる芝居を見られたことに感動するべきだ。
若さの安売りをトコトン原価スレスレまでしてしまっている舞台、役者はボランティアとの事なので、まさに若さバーゲンセールinKERA・MAP支店ですね。

毎回のことながら、WEBで気になったケラ評を取り上げておこうと思います。

>>正しくも松枝日記
新しいのにフルキャスト。という駄洒落はさておき(しばらく意味分からず・・・)、随分とエロな部分にこだわっているようです。
私はあんまりエロさは感じず・・・青々しくて清清し過ぎな表現だったので、心地よい感じ。
役者のエネルギーもさることながら、確かにケラさんのエネルギーも賞賛するべきものですね・・・あれだけのエネルギーをまとめ上げる力は、並大抵ではないと想像します。

>>かなしゃる島blog
夢の夢・・・の夢という入れ子構造に対して、その足のつかない浮遊感のようなものに心地の良さを感じられたみたいです。
夢オチというベタな評価を下すにはあまりにも惜し過ぎる作品・・・何度も繰り返される夢オチには、私達自身が夢に落ちていく快感すら与えてくれたのかもしれません。

>>劇団ブサイコロジカル
役者が客席出入り口に捌けていった先の顔を見られたようです。
舞台の最中の、舞台に立っていない役者の素顔・・・見てみたかったかもしれません、35人分。
劇団付きの役者とは違う立場の彼ら・・・多くの人にとっては、遠い存在だったケラリーノサンドロヴィッチの舞台に今立っているという、幸せと恐怖の狭間にいるわけだし・・・。
そんな人たちが、ふと役者であり人間になっている瞬間の顔は、はたして?

>>しのぶの演劇レビュー
私もがんばらなきゃと思わされたようであります。
あまり他の人が言及していない、ダンスの部分関しての文章が中心です。
よくもまぁそこまで細かく覚えているなぁ~と関心させられる描写能力ですね・・・振り付けに関してケラさんから「ありがとう」と言われている金崎敬江さんは、bird's-eye viewの方・・・振りがbird's-eye viewぽいとは感じたけど、それは当たり前だったのかも知れないです。
しかし、あれだけの大人数で上手い具合に皆さん移動していきましたよね・・・私は、ダンスよりどう移動するのかに興味をもって見ていました。

>>オドソン:カンゲキモード
迷いの森のシーンがお気に入りのご様子・・・詳細に描かれています。
蜷川の「メディア」にもラストの役者が現実世界に捌けていくのと同じ演出があったとのこと・・・そこに「この話は決してフィクションではないんだよ」というメッセージを見出したそうです。
ヤンマー(略)のどこがフィクションではないというのかなぁ?・・・若さというリアル?、最後の演出には議論の余地ありかも知れないなぁ。

>>カニリカニリカ
あまりに感動して、高い料金払ってタクシーで帰ったということです。
フランス映画や小津ワールドのエッセンスがどのあたりにあるのかは私には定かではないのですけれども、見る人が見るとそういう細かい視点が入り込む余地もあるんだなぁと関心。
確かに、ケラさんは古典コメディー映画は見捲くった時期があると書いているしね・・・そういう確固たる基盤があってこその安定した笑いの提供を可能とするのでしょうね。
昔のケラさんとの交流から話題が始まるので、エッセイとして面白いです。

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2005年06月26日

劇団鹿殺し『百千万』

王子小劇場に劇団鹿殺しの第12回公演「百千万」(モモチマ)を観に行ってきました。

うーん、熱狂舞台。

劇場前には「劇団鹿殺し」と書かれた黒字の旗、燕尾服や着物着た役者達が客入れ・・・畳の席に靴を脱いで入場、天井には裸電球・・・最前列はビニールシート、アングラ的な雰囲気に囲まれて、期待は膨らんでいくばかり。
そして、蓋を開けてみるとその期待は、期待以上の面白さによって裏切られることになりました。

こちらの劇団は、路上公演を毎日のように繰り返しているらしく、そちらでの短編芝居、パフォーマンスの集大成的なお芝居、劇団鹿殺しの魅力を最大限に伝える為の6部構成、全体を繋ぐストーリーという1本の糸は存在しますが、それぞれがそれぞれの手法で描かれていくので、かなり雰囲気は違います。
演劇を壊すということを明言しての本公演、「演劇よ、世界に鉄槌を・・」という言葉を背景に、物語が進んでいきます。

物語の主人公は奇形の男の子「エンゲキ」、頭は肥大化し体中がへその緒で絡まっている彼は、母を探す旅に出る。
エンゲキの命の意味がその旅の過程で明らかになっていくのであるが、これは物語の中での少年の生きる意味であり、また演劇という表現への提言にもなっている。
そして、この物語を表現する手法自体が、演劇に対する鉄槌であり、試みの実験場と化しているのである。
この、何重にも入れ子になった演劇へのアンチテーゼとしての舞台が劇団鹿殺しでありました。

チラシで演劇への鉄槌を表明し、手法で表現を試みて、物語としてエンゲキの生き方を明示する・・・このそれぞれの階層がそれぞれを包含する関係をとっていて、それに晒される観客は、その1つ1つを観ながら心の奥底に、演劇とは何なのか?という自らの答えを見出すように促される。
この能動的なスタンスが、熱狂的な気分へと観客を昇華させ、1つの一体感へと誘われるのだろう。
彼らが、どこまで考えて物事を試みているのかは定かではないけれど、彼らが採用したオリジナリティーがもう既に演劇へのアンチを含んでいることは明らかである。
それを良しとするか、悪しとするかは、見る人間が判断するだけで、彼らは彼らの道を進むだけ・・・ただし、多くの人が彼らの手法に魅せられる事になるであろうことは創造するに容易である。

2時間近い舞台で、6つの構成・・・映画あり、客いじりあり、宮沢賢治あり、歌あり、ダンスあり、アンコールあり・・・詰め込めるものは全て詰め込んでいくというスタンス、それは大枠でもしかりだし、小さな小さな小ネタも入れられるところは入れていく!!っていう情熱。
誰も気が付かないようなネタも挟み、物凄い量の小道具を使い分け、濃密でありながら、大雑把にせずに、丁寧に丁寧に作り上げているという印象。
何しろ熱狂的に進んでいくので、粗を探している余裕なんてものは無いのですが、きっと手抜きに相当するようなものは無いと言える。
お客様の為に・・・という心意気が感じられ、その為の過剰すぎる程のサービス精神、舞台内容もさることながら、HPの完成度や情報提供の早さ(火曜日の混雑業況がアップされてました)など、やるべき事はちゃんとこなして、その上でバカ騒ぎをしている・・・だからこそ好感も持てるし、安心して熱狂していられる。

楽しかった~それだけはハッキリしている・・・それ以上に何か語る必要があるのか?

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2005年06月24日

play unit - fullfull『此処にいるはずのない私』

下北沢OFF・OFFシアターにplay unit - fullfullの公演「此処にいるはずのない私」を見に行ってきました。
前々から気になっていて、見に行きたいと思っていました・・・今日はとてもタイミングが良かったので、昼割で観賞・・・映画館からのはしごです。

あるアパートの一室を舞台に、10人近い登場人物が右往左往・・・屋根から水は漏れてくるわ、盗聴器が見つかったり・・・変なプレゼントが届いたり。
実家の家族は夜逃げしてくるし・・・変な男は着いて来るし・・・。
たった1人が住んでいた部屋には様々な理由で人々が集まってきては、何かと問題起こして帰っていく。
小説のコンテストの締め切りが近いというのに、部屋の中は大騒ぎ・・・次第につのっていくストレス。

シチュエーションコメディーでも無ければ、人情ものという程の人間模様もない・・・日常に少し毛が生えたくらいの日常、ちょっとサスペンスな日常・・・背伸びした日常を背伸びしない人間が描き出していく。

とはいえ、観客は毛が生えた日常を観たい訳じゃない・・・そこには、毛が生えたなりの毛の生えさせ方が必要だと思う。
毛の生えた日常を毛の生やしっぱなしで舞台になっているという気がする。
何故って、劇団のテイストが明確になってこなかったから・・・毛を整えているテクニックが見えなくて、ボサボサとしている印象・・・焦点の定まらないお芝居。
その焦点の定まらなさ加減は日常的とも言えるものなのかも知れませんが・・・私には物語としては退屈な印象、ぼやけた画像から価値を見出せるほど感受性は強くないです。
勢いのある部分はその流れに乗っているだけで、それなりに面白さは感じられるものの、全体としては決して満足できるものとは言えず。

日常を描くなら、描き方に魅力を与えて欲しい・・・それが毛が生えたそれであっても、やるべきことはそんなに変わらないはずだ。

面白いこと何でもやりたい集団を名乗っている劇団ですが・・・何でもやりたいという程面白いことが見えず。
まぁ面白いは「笑い」が全てでは無いのですが、面白い事をやっていても、お客が面白いと思えないようではやはり良いとは言えず。
うーん、個性が見えなかったのが、一番辛いかな・・・。

見えなかったといえば、一言だけ・・・席の組み方がおかしかった・・・。
私は前から3、4列目あたりだったのですが、私が座っているところよりも、前の席の方が床が高くしてある。
そこに大きな椅子が置かれ、そこに巨体が座っていた所為で、前方視野が全く無く・・・首を左右にフリフリしながらの観賞・・・意味が分からない。
明らかに、前の席の方が私の席より高い位置から始まるし・・・?。
役者が舞台で寝転べば、全く見えないし・・・きっと後ろの席の人も見えにくかったと思うよ・・そんなこと言ってたし。

うーん、最近座席運に見放されているなぁ・・・てか、座席運があるってのが演劇の悪いとこ。

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電車男

なにかと世間を騒がしている電車男ですが・・・映画見てきてしまいました。
しかも、就職活動の試験すっぽかして、時間ギリギリだったし、受けても受かりそうに無い会社だったので、まぁいいや。

超特急で映画化されて、世間の話題に乗っただけで消費財としての映画なんだろうな、と思っていた(世の中のみんな・・・)訳ですが、どうも映画の評判が良い、クオリティーが高いという評判だったので、見てみたかった。
ので、夏の暑さにやられつつ・・・清涼を求めて、1人スーツ姿で映画館に向かった私。

蓋を開けてみたら、確かに面白い・・・2ちゃんねるでの掲示板の雰囲気をどうやって出すのかなぁ?と思っていたのですが、なかなかスピード感を出しつつ、空気も匂わせつつ、ヴィジュアル的にも楽しめるようにと、なかなかな好演出。
スレッドの向こう側の人たちにも少しだけ物語があるというのも、映画としての厚みを増すのに一役買っている感じ。

電車男を描いた山田孝之は好演・・・オタクっぽさが、弱くも強くも無くて、ちょうど良いバランスで、誰でも気軽に感情移入できてしまう。
スレッドの住人ではないけれど、頑張れ!って応援したくなりますよ。
結構感動・・・純愛ブームだかなんだか知らんですが、普通に良い・・・私も涙したし、劇場中もそんな雰囲気。

とはいえ、そこは2ちゃんねる・・・面白を忘れてはいけない、前半はひたすらに2ちゃんねる的なノリで笑いを作っていくので、楽しく楽しく・・・この辺は脇役陣のパワーもあり・・・。

いや~面白かったわ~~うん・・・こりゃ、演劇は売れないわ。

演劇と映画という事で言えば、ヨーロッパ企画のサマータイムマシンブルースがこの夏はありますね。
踊る大捜査線の本広克行監督が映画化です・・・予告が流れてましたが、楽しそう。

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2005年06月22日

ONEOR8『29』

シアタートップスにONEOR8の第17回公演「29」を観に行ってきました。

精神的な病気?で声を発する事が出来ない主人公を取り巻く家族や地域の人たちの風景。
人々の心の機微を、軽い笑いを織り交ぜながら、ところどころ切なく描いていく、久々に観た正統お芝居という感じ。
舞台も作り込まれていて、男が住む部屋の風景がありありとそこに立ち上がっている・・・どこかの町のある一角の日常を切り出してきたかのような懐かしさ。
人情モノ・・・正統派・・・まじめ~なお芝居は好んでは観に行かないのですが、たまに観ると良いものですね。
前半は、退屈な印象を持ちましたが、後半話が流れ始めてくると、テンポの良さも相俟ってグイグイ引き込まれていきました。

一番近くにいるという思い込みが、一番理解しているということとは違って、一番理解するために自分を犠牲にすることが、一番の幸せであるという思い込みへとループしていく。
言葉を語らない主人公の面倒見をしている兄貴の嫁さん・・・この主人公の裏表の関係として実は彼女が描かれていると感じた。
それは、言葉を語らないが故に感情を移入する為の人物にならない主人公に代わって、その受け皿となっている彼女の存在があるからだ。
言葉を語らない彼は、過剰に相手に気を使うが故に言葉を語れなくなり、その面倒を見る女は、過剰に彼に神経を尖らせて守ろうとするあまりに、彼の気持ちを見失っていく。
どちらも相手への優しさが空回りするところから発していて、プロセスや結末は、表裏一体となって進んでいく。

表情の動きも薄く、言葉も語らない男と、その男への別れの言葉を語りつづける女という構図のラストは、いやがおうにも感動を誘う。
その2人のスタート地点が同じようなところであって、お互いの問題が解決する瞬間が、お互いにとっての成長という悲しくも未来ある結末には、物語の描き方の上手さ・・・作家の実力が集約されていたように思いますね。

友人の幽霊とカレーの神様は、面白担当としては十分にその役割を果たしていたのですが、いまいち必要性に欠けた。
特に、友人の幽霊はどう考えても物語的に大きな役割を果たすであろうと思われたのに、意外にすんなり舞台の外に言ってしまったので、ちょっと肩透かし。
もう少しあの部分が前に出てきても良かったと思う・・・どう考えても中途半端でした。
面白かったのですが・・・。

まぁ、そういう脇役どころが日常を描き出して世界観を組み上げていくのが、人情モノの醍醐味のようなところもあるので、単純に切ればいいという話でも無いと思う・・・だから、もっと物語に絡んでも良かったかな・・・と。

悲しきかな・・・WEBで予約していったのに、かなり見づらい席でガッカリ・・・最前列の一番端だったのですが、あまりに見づらくて最初はイライラしていた。
あそこに座る人の見た目などきっと考えていないのだろうなという舞台設計、目の前に柱・・・柱が無ければ多少違ったのでしょうけど・・・あれはいらないよ。
意気込んで観に行ったのに、ああいう席に座らされるのは同じ金額を払っているのがバカバカしく思われる・・・こういうちょっとした配慮が演劇という世界には欠けている気がする。
見えにくい席が発生するのは仕方が無い事ですが、そういう席は関係者から埋めるのが筋だと思うのですが・・・いかがでしょう?。
特にWEB予約はぴあと違って、席の良し悪しを劇団にお任せするという信用だと思っていて、そういうスタンスで観に行ったら観難い席だったりするとぴあで買えばよかったとなるし、劇団への評価もマイナス1ですね。
逆に、凄い良い席だったりするとうれしいし、劇も少し良いものになる。

最近は、良い席で見たい芝居はぴあで買うことにしている・・・その方が確実ですからね。

演劇における座席の問題は、演劇における最大の問題かもしれませんね・・・今から見るお芝居、全てに影響しますから・・・頭が痛い問題ですよ・・・ほんと。

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2005年06月19日

くねくねし『おみそれテクニク大辞典ろくろっ首ロードくねくね!』

下北沢駅前劇場にくねくねしの「おみそれテクニク大辞典ろくろっ首ロードくねくね!」を見に行ってきました。
こちらの劇団、本公演が第3回目ということですが、その前から「劇団ノリのいい会社」「悪運ダイヤ」と劇団名の変遷を遂げ、今に至っているようです・・・最初の公演は10年以上前ですね。
「くねくねし」というのは、悪運ダイヤ時代の公演名、実は「おみそれテクニク大辞典」もその頃の公演名にあります・・・実は再演?。

くねくねしっていうのは、古語で「ひねくれてる」「ねじくれてる」といった意味があるそうです・・・こういう事は、前回公演の際のインタビュー記事に書いてありました。

という訳で、舞台の方は、「ひねくれてて」「ねじくれてる」内容でしたね・・・久しぶりに振り切れているお芝居を観られて満足してしまいました。
上演時間は、2時間弱・・・濃密な?時間体験。

物語は、おみそれテクニク大辞典というおみそれテクニクが書かれた何十冊にも渡るシリーズをマスターして、そのテクニクを使って人々を助ける少年のお話。
まぁ、そのおみそれテクニクっていうのは道具であって、どちらかというと、そういう道具をどう使って物語をオモシロオカシクしていくのかという部分に心血が注がれている舞台。
おみそれテクニクがどうだ!っていうよりも、おみそれテクニクによって物語がどう転がっていくかが見ものであって、その転がり方が「ひねくれてて」「ねじくれてる」というわけ・・・ろくろっ首ロードなんて、語られたのは一瞬。

というように、テーマがどうのこうの語っても仕方が無くて、そのひねくれ加減を楽しんで、くねくね加減に酔いしれようというスタンスで見るのが良い。

評論可能性を残しておいてくれると、何かと対処しやすいのですが・・・もう私としては言葉で語るには限界であります。
全ては鑑賞してこそ伝わる「勢い」であって「雰囲気」だと思います。

全体の雰囲気は大変素晴らしかったです・・・強いて言うなら、個々人の能力のバランスが悪い。
それは役者に限ったことではないのですが、偏差が大き過ぎて・・・互いに乖離しあっているような印象を持ちました。
キャラクターが全面に押し出されている舞台なので、役者の力量というのはさほど重要ではないにしても、台詞や動きの下手さが目立つ。
脚本上の問題もあるのかもしれませんが、言葉のテンポが良くなくて、折角のスピード感が殺されてしまうポイントがチラホラ。
とはいうものの、全体を通してお客さんを楽しませようという心意気を感じて、その心意気にまんまと嵌って、全体的に楽しめた分、細かい粗が際立ったという印象です。

役者全員が、全員楽しめるお芝居という印象・・・つまり、誰が主役だとか、誰がこの話のメインとい事よりも、皆が楽しむ為の舞台でした。
やはり今後の課題としては、役者としての魅力とか、物語としての主張が必要かなって思いました。
みなさん働きながら、その中でお芝居を作られているようで、そういう意味では、それが生活の全てではないという余裕は感じられました・・・余裕というか手抜きというか。
面白い作品なだけに、個人的にはもっと良いものを・・・という期待はしてしまいますね。

映像は凝ってて面白かった・・・とくに亀に水中モーターつけて泳ぐCGは出来の良さに感動でした。

今後は、全体的なベースアップを期待します・・・そうすれば、注目株として取り上げられるようになるのではないでしょうか?
その為にも、横のつながりを明確にして、情報の流通がスムーズに行われる事が望ましいでしょう。
そうすれば、全体のクオリティーも大変素晴らしいと呼べるタイミングがやってくるような気がします。

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2005年06月18日

劇団印象『空白』

劇団印象-indian elephant-の第4回公演「空白(そらしろ)」を江古田ストアハウスにて鑑賞してまいりました。
劇団プロフィールを観ると、最初の頃は言葉遊びを多用した舞台作りだったそうですが・・・最近は、言葉にこだわった「エッチで、ポップで、ドキュメンタリー」な芝居でオリジナリティーを確立すべく奮闘中とのこと。
実は、こちらの劇団の作・演出の鈴木厚人氏のブログ「ゾウの猿芝居」を知っていて、時に辛口で芝居を批評している方ですが、そういう芝居以外の情報を頼りに舞台を観に行くという事はなかなか無いので、ちょっと不思議な感じでした。

お芝居の方はというと、オリジナリティーはまだまだという感じ・・・言葉の使い方は面白くて、野田秀樹の言葉遊びとは全然違う意味でのセンスはところどころに。
比喩の使い方が独特という感じです・・・作家の方は、広告関係の仕事をしていたらしく、もしかしたらそのあたりの力量は培われているのではないでしょうか?コピーライタ的・・・。

そういう言葉の面白さが垣間見えるにも関わらず、全体的には弱さが目立つ。
オリジナリティーの追求中ということでしたが、個人的には言葉の面白さを中心に構築すれば、それはきっと独特なものになるような気がします。
野田秀樹のフォロアーとしての野田不出来な作品だった為に、野田路線は止めたそうですが・・・私個人的には、あの手の路線で活動している人達がいない事が寂しいと感じている身なので、できればそっち路線で頑張って欲しいと思うのです。
野田秀樹があまりにも強大で、手法として全ての特許を有していると思われるほど、ありとあらゆるやり方を食い尽くしているように思われますが・・・野田秀樹自身も、作品を生み出しつづけているのは野田不出来だからで、きっと野田不出来であることは悪い事では無いはず。

当初、その路線で始めたスタンスをたった数回の公演で諦めるのは、勿体無い気が・・・。

今回の作品は言葉の面白さも残しつつ、物語としてかなり正統なものになっていた。
楽天家の男が、今の奥さんと昔の奥さんの間で、誤解を生み出しながら、昔の奥さんの恋を応援するんだか、しないんだか?っていう話。
笑いにするでもなく、シリアスにするでもなく、リアルにするでもなく、虚構でもない・・・日常の風景の中から、冷蔵庫という何気ないものを拡大解釈させる試み。
冷蔵庫に欲望を重ね、空虚を重ねる・・・冷蔵庫という道具にフューチャーしているのは面白いけど、やはり日常を抜けきれずに、折角の冷蔵庫が活かしきれていない。

そして、同程度の物語は世の中にいっぱいあるし、ハッキリ言ってしまって、今更演劇で消費する必要の無いタイプ。
演劇である事の価値というものを考え抜いて欲しいと思うのです。
全体の作り込み、スタッフワークから始まる部分も、学生レベル・・・演劇という世界で評価される為には、まだまだ超えなければいけない部分は多いように思いました。

ブログで書いている内容と舞台で表現される主張が、あまりにも乖離していてちょっとビックリしました。
もっと、作家の思想が組み込まれた作品になる筈と思っていたのですが・・・語れることを、表現することは、そうは簡単ではないようです。

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2005年06月17日

机上風景『複雑な愛の記録』

新宿タイニイアリス机上風景の第11回公演「複雑な愛の記録」を観に行って参りました。

「リアルな演技、シリアスなエンタテインメント」を標榜する机上風景の舞台は、リアルを装い、シリアスを道具して、それこそを娯楽として提供するものでありました。
リアルとは書いてあるけれども、現実をリアルに描き出していくという訳ではなくて、どちらかというと虚構であり作られた世界をリアルな言語で語っていくという舞台。
四方を黒で囲まれた舞台に、テーブルが置かれ、木枠の窓が2つ垂れ下がっているだけというシンプルな世界、その舞台で同時に2つの部屋の表情が進行していく。

複雑さという言葉は、物語における愛のベクトル数が多い事から生まれる複雑さでもありながら、同時に主人公が置かれた状況が生み出すたった1つの複雑な愛の形の記録という意味でもあるようだ。
個人的な感想としては、後者の物語をもっと大胆に描いていっても良かったのではないか?と感じる・・・脇を固める幾つかのベクトルは、複雑ではあり、事件性は強いものの、ただその為に入れ込まれた物語でしかなかったように思います。
主人公の女性の周りの風景を補強するための物語ではあるとはいえ、長くて且つ不用意な展開は、全体的な視点から見ると、どうも必要以上に世界観を犯しているように思われました。

という風に語るのも、主人公の女性を取り巻く物語というか、設定というか・・・に大変引き込まれまして、演じられていたおもちゃさんの雰囲気の良さも相俟って大変お気に入りでした。
1つのステージの上で、2つの部屋(マンションの隣同士)が重なるようにして描かれていくのですが、この時に、彼女の空間は空気が張り詰めていて見ていて心地よいものの、もう1つの部屋の雰囲気が雑で相乗効果になっていなかったから・・・ちょっと残念な感じ。

正直言ってしまって、彼女の部屋の風景だけを描く「1人芝居」にしたらかなり面白いものになっていたのではないだろうか?と思う。
彼女は、超能力?でもって隣の家の風景が見えてしまうわけだが、彼女には見えるけど、観客には見えない・・・かすかな音とかから物語を掴むような舞台で、彼女の言動とかから物語を構築していく。
観客は断片的に描かれる隣の部屋の風景を想像し、その複雑な行為を楽しむのだ。
そういう楽しみは、舞台前半の彼女の素性が分からないまま物語が進んでいく時の、ドキドキ感とイコールのように思う。
とは書いてきたが、要は彼女が1人で封筒の中身を見つめながら言葉を語る雰囲気の綺麗さに酔いしれていて、それだけをダイジェストとして観て見たいなぁという思いから適当な事を書きました。

物語とか演出とか、全体的な印象は良いです・・・笑いの殆ど無い物語を淡々とクオリティーだけで魅せていくアプローチはあんまり見かけない分野なので、頑張って欲しいですね。
物語が洗練されて、限りなくシンプルに必要最低限のところまで切り詰めていった時に、初めて机上風景のコンセプトは強い輝きを放つような気がします。
まぁ、今回の作品しか見ていないので、言い過ぎるのも良くないですしね・・・今回の作品からはそういう感想を持ちましたという一観客の言葉です。

綺麗なシーンは本当、良かった・・・あの異様さが娯楽になる時に机上の風景は、形を持ち始める(化ける)のではないですかね?
その為にも、いろいろと削って足すのを期待します。

アリスインタビューに本作品に関するインタビューが掲載されています。

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2005年06月12日

乞局『耽餌』

王子小劇場に乞局(こつぼね)の第八回公演「耽餌(たぬび)」を鑑賞しに行ってまいりました。
こちらの劇団は、前作品が佐藤佐吉演劇祭で最優秀作品賞を獲得するなど、新興勢力として注目中だったこともあって、今回の鑑賞となりました。

劇団プロフィールには「何処かしら欠けた登場人物たちが救いようのないすれ違いを織り成し、不幸な結末へと静かに進んでいく。」と書かれていました・・・うん、今回見た作品を一文で表すなら、まさにこの言葉という感じ。
客入れの曲がマイケルジャクソンだったり、オープニングで笑っていいともの曲がかかった時には、なんか面白い舞台を想像してしまいましたが、蓋を空ければしっかり「欠けている」し、ちゃんと「不幸」でした。
正常な役回りの人間が1人も出てこない、10人ぐらい出てくる登場人物が揃いも揃って「欠けて」いる。
壊れているのではない・・・表面的には平穏な日常が紡がれているようでいて、でも背後はしっかりと崩壊している。
そんな裏と表を抱えている、まさに「欠けた」人たちが織り成すアットホームな日常・・・は今にも折れる柱で支えられている。

舞台は二階建てのボロアパート。
そこで繰り広げられる、良く言えば人間模様、悪く言えば狂気模様・・・中庭には「鳴き石」と呼ばれる塚が鎮座し、それが何なのか分からないまま、とはいえ撤去する訳にも行かずにそこに放置されている。
見様によっては人の顔にも見え、誰も読めない文字が彫られているそれは、もはや邪魔物として人々に唾を吐き掛けられる存在・・・そんな鳴き石から、泣き声のような音が聞こえるようになる。

唾を吐き掛けるというシーンが何度も描かれる・・・その愚行が、後の物語に何らかの悪い影響をもたらすであろう・・・という漠然とした恐怖がジワジワと積み重ねられていく。
この手の気味の悪さは、日本人特有のそれなのだろうと思う・・・恐いことは何も描かれていないのに、なんとなく気味の悪いことが起こるだろうという予感が芽生える。
八百万の神ではないが、全ての裏側にはあの世が繋がっているというような意識があって、今回の作品は終始そういう「気味の悪さ」を連続的に提供する事で、観客の内側にフツフツと沸き上がる恐さを演出していたように思う。

この舞台観ていて、私は京極夏彦の小説を思い浮かべた・・・ミステリーでもなければ、陰陽道も出てこないけれど、舞台の空気感が京極の小説が持つ湿っぽさと似たものであるような気がした。
演劇と小説という違いもあるし、語り口も違うのだけれど、目は同じ方向を見ているような気がした・・・それは「欠けている人を写像として平穏な日常を創造させる」ということ。
京極の小説では、欠けた人を「妖怪に獲り付かれた」と表現する・・・人は、欠ければ欠けるほど、欠けていない状態を思い浮かべるし、妖怪と比喩される人間は結局その背後に強い人間性を秘めているものだ・・・故に京極の物語の終わり方は、「人間とは」というところに落ち着く。

乞局も、欠けた非日常によって、補完された日常を想起させる。
そして観客は、そのギャップの部分に「気味の悪さ」を感じ、救われないエンディングに「後味の悪さ」というコメントをつける。
確かに、エグイ終わり方だったのですが・・・きっとそれだから「後味が悪い」のではなく、結局のところエピローグが無いからで、日常へと引き戻されないから観客はそう感じるのではないだろうか。
残酷な結末に明確な言葉を与えて日常の一部に昇華させない手法、誰もが答えを求めていて答えを与えられる事に慣れている時代の中で、実のところ後味の悪いものが日常に埋もれている・・・そういう答えの無いことに答えを与えないことの価値を与えているものかもしれない。

欠けた状況の中にある日常の風景・・・非日常の明確の理由ではなく、その裏の日常にこそ意味がある。
その意味を受容する事に価値を見出そうとしている芝居、その1つとして狂気の断片を採用した劇団が、乞局ではないだろうか。

>>Wonderland
ご紹介いただきました。
短めに、御礼だけ記しておきます。

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2005年06月11日

流山児★事務所『戦場のピクニック・コンダクタ』

本多劇場に流山児★事務所の「戦場のピクニック・コンダクタ」を観に行ってきました。
燐光群の坂手洋二氏が1991年に書き下ろしたピクニック・コンダクタの音楽劇改訂版を、流山児祥氏が演出するという形での上演。

物語全体のテイストは燐光群なのであるが、その味付けは全く異なるものであると言って良いだろう。
暗転が無いのであるから、燐光群とはやはり違ってくる・・・脚本の段階で暗転を要求しないものになっているのか、なっていないのか・・・上演内容からは判断しかねるし、かといって燐光群は暗転の芝居だと思っているので、きっと過去もそうだったのではなかろうか?という思い込み。
物語の紡ぎ方から考えると、暗転が必要という内容でも無いが、暗転を使ったほうが物語の区分けがハッキリして見やすくなったのではないかという気がする。
燐光群が、暗転を活用して時代も空間も一足飛びに駆けて行く印象があるだけに、同様の物語構成を持つ本作品が、そうではなくて、フェードインフェードアウトなシーン切り替えを利用する事に、いささか引っかかってしまった。

ピラミッド型に場面を組み上げていく事で徐々に全体像が把握できる、という構成を持つ坂手の物語だが、今回の演出ではそれぞれの場面を直線的に並べ紡ぐことによって、そこには一本の流れとしてそれが立ち現れるという作用を持った。
ピラミッドと違って、そこには積み上げられていく高さのような概念が見当たらない・・・だから、観客は遠くから全体を見ることを拒否され、物語の進行と一緒にその線の上を歩いていく事を要求される。
後戻りは許されず、今の場面を消費する事に集中することを余儀なくされているという印象だ。

解釈の容易い物語ならそういうスタンスでの鑑賞でも良いだろうし、そういう方がむしろ楽しめると言えるのだろうけど、難解であったり、展開が複雑であるような作品では、観客が頭の中でシーンを繋ぎ変えたり、言葉の繋がりを明確にしたりといった作業が必要だったりするものだが、その為にはどうしても全体が見えるポジションに立っている方が有利だ。
坂手の作品は、暗転でシーンを切り分けながら、時空間をポンポンと渡っていく、繋がりを考えながら作品を見ることを必要とされるが、それは逆に言えば、そういう見方ができるように仕向けてくれているとも言えるのだ。
それがピラミッド型の展開であり、半強制的に観客は少し距離を置いた位置に置かれるし、そこから観た方が綺麗なことが感覚的に分かる。

対して、今回の演出では、一本の線を辿りつづけていくという感覚であり、物語への没入し易さがあるとはいえ、没入したからといって楽しめる作品でもない・・・難解である事の心地よさというM的見方ができる作品であるならまだしも、そうとも言えない作品。
シーンごとにメッセージがあって、それを読み解く事を要求しているのだけれど、それをし難い演出になっていて、ただ描かれるシーンをただ見ているという感覚であった。
ということで、物語も殆どつかめず。

続きはのとほど~。

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TextExceptPHOENIX + steps『ニッポニアニッポン』

駒場アゴラ劇場に、TextExceptPHOENIX + steps「ニッポニアニッポン」を鑑賞してきました。
こちらの「テクストエクセプトフィーニクスプラスステップス」は東大駒場を中心に活動していた劇団「小鳥クロックワーク」の西悟志が新たに立ち上げたシステム。

こちらの作品は、芥川賞作家・阿部和重氏の小説の劇化ということ・・・グランドフィナーレなど読んでみようと思ってはいたのですが、読まずに今まで来てしまいました。
今回お芝居を観て、演出もさることながら原作にも興味を持ちましたので、帰りに古本屋さんで阿部和重氏の小説を一冊購入して読んでみる事にしました。

西氏作品は初めて見せていただきましたが、大変興味深く見る事が出来ました。
演出において「歩くこと」が重要な要素ということでしたが、確かに「歩く」という仕草をここまで魅力的なものとして描いてくれたのは新鮮でもあったし、感動的でもありました。
作品全体として、足を動かす事に焦点が置かれ、その点によって拡張された「歩く」が前景します・・・お芝居というよりは、パフォーマンスのようでもあり、やはり演じているのであるから演劇なのです。
言葉に関しては、小説を読み進めるというイメージの元、リーディングのようでもありました・・・時おりページ数が宣言されたり、小説を片手にそれを読むという形で言葉が進んでいく場面もあります。

演劇とパフォーマンス、演技とリーディング・・・それらの混合物的舞台が本作品でした。

何しろ速い、膨大なテクストを吐き出すためには言葉を速く喋るしかないし、演出上の緩急という意味においても、この時間的な強弱は重要であるのだろうと想像に容易い。
先ほどから「歩く」と言っているが、正確に言うならば「早歩き」である・・・ステップという言葉がその雰囲気を的確に表現している気もするが、何しろ全体を通して「速い」のである。
この速さは、ハッキリ言ってしまって演劇に対する解体的行為だと思う、現状のリアルタイムな再現が演劇の基本であるのに対して、この速度は日常には有り得ない時間感覚を提示してくる。
その点においても、本作品がスタイルにおいて演劇というよりは、パフォーマンス的・ダンス的と解釈できる理由になるだろう。

この強烈な速さは、舞台と観客の領域を明確に分けてくる。
しかも、西氏はこの分かれた領域を戦略的に演出に取り込んでくる・・・役者は土足で観客の側に侵入してくるし、逆に舞台へと侵入していく者もいる。
非現実的な時間感覚で繰り広げられる舞台の中で、フッとこちら側の現実が眼前に提示されると、そこには普段感じないレベルでの強烈な現実感が伴って現れるようだ。
当日に観劇している人なら、その感覚が分かっていただけると思うのだ・・・劇中に突如現れる西と名乗る者、観客席から放たれる野次、舞台外からのアナウンス・・・その度に観客はリアルタイムな日常に引き戻される。
その根拠の無い怖さを西氏は意図的に利用しているように思う・・・歩くという行為は、それを可能にする為の装置に過ぎないと考える。
歩くという躍動感(超歩行)は確かに独特のものであるし、魅力的な手法であるが、そこから浮かび上がる普通の日常と人間の姿が実は重要なのかもしれない。

楽しい時間でした・・・ニッポニアニッポンも読んでみようと思います。

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2005年06月10日

LOVELY YO-YO『Lovely』

下北沢駅前劇場にラブリーヨーヨーの新作「Lovely」を、雨に打たれつつ観に行ってきました。
こちらの劇団は、3回目・・・個人的なある理由でかなり歪んだ愛し方をしている劇団、物語とかスタイルがどうのこうのというよりも、劇団が好きなんです。

ただし、今回は過去2本と比べるとかなり路線違い・・・真面目な物語を紡いでいったご様子、私自身が描いている劇団の良さが半減されていて、個人的には不完全燃焼。
重点の置かれた物語自体もいまいち波に乗れておらず、切れ切れになっていてストーリーが繋がってこない。
どっちに転んでも評価しようの無いなんとも不安定な作品、良い評価は与え難いと思っていたが、案の定演劇のページでは酷評が見受けられる。
内容的には仕方が無い作品だったと思う、ラブリーの良さも無ければ、物語のクオリティーも良くない、そしてハッキリ言ってしまって、扱っているテーマも人間の感性にはなかなか染み込みづらいものだと思う。
というように、ハッキリ言って良いとこ無しである。

状況を軽く描いておくと、萩尾望都の「トーマの心臓」である・・・少年愛をテーマにしたギムナジウムでの物語。
偉大な作品「トーマの心臓」を目の前にして同様のテーマを同様の設定で繰り広げるのは、無謀とも言えるものだが、そのチャレンジ精神は買ってみても良いと思う。
この手の物語を描こうと考えた背景を知りたいところであるが、その手の情報は無く、果たして主宰の久米伸明氏がこの作品を書いたのかという事も疑問の残るところである。
少年愛というテーマの作品を男性が執筆するというところに私は疑問だし、書こうとする動機が不明である・・・そもそもこういったテーマは女性による女性の為のものだったと思うし、需要と供給ということを考えても、疑いの多い作品である。
トーマの心臓という文学作品を知っている私ならば、ある程度そこに文学的要素を見出そうと試みる訳だが、男性にとってはまずは嫌悪を感じるテーマであり、私自身も多少感じたと言える。
そこに文学的な可能性が見出せれば全ては丸く収まったと思うけれど、この作品に限れば、そこまでは行っていないし、行こうとしたのかもハッキリしない。

とはいえ、この作品が何故描かれねばならなかったのか、ラブリーがそれを選んだ理由が知りたいところである。

まぁ詳しい物語を語ってもしょうがないので、少し話題の違うところへ・・・。
えんぺのレビューに関して・・・「台詞を噛む事で笑いをとる劇団がお金をとる事は許されない」や「バカ騒ぎしてるだけ」という発言があるが、台詞を噛むのは事実だし、バカ騒ぎもする、芝居は上手くないが演劇界から消えてしまうのは惜しい。
彼らのスタイルを分かっていない発言だということを明記しておきたい・・・逆にこの劇団の良さは、私はこの手の部分だと思っているからだ。

まず、台詞を噛んで笑いを取っているのではない・・・台詞を噛んだ事をアドリブで笑いにできるセンスだと思っているし、それが許されている集団という特殊性を認めておきたい。
お笑い芸人だって噛む、噛んだらここぞとばかりに笑いに展開する・・・周囲がツッコミを入れる事もあるし、自分で笑いにすることだってある。
それは、見ている人が笑えればそれで良いというルールがそこにあるからだ。
確かに、殆どのお芝居では台詞を噛むなど言語道断、お客を萎えさせる一番やっては行けないミスとも言える・・・私だって役者が噛めばその瞬間に「あ~あ」って思う。
ところが、ラブリーヨーヨーに限って言えば、全く変わってくる・・・笑えれば何でも良いというルールがそこにあるからだし、だからこそアドリブ的な笑いがコンスタントに出てくるのも面白みの1つ・・・役者同士が相手を笑わせる事に必死になっているからだ。(今回の作品は違う!)

そこにあるのは、学生の他愛の無いお喋りの風景・・・部活動が終わった後の部室でのバカ話、そこにはルールなんてものは無くて、今が面白ければ良いということが唯一の重要なテーマだった時代。
そこを心の中に大切にしまっているのが、私の思うところのラブリーヨーヨーである。
劇としての不完全さは毎度の事ながら成長を期待する部分ではあるが、彼らが持っている独自のスタンスはオンリーワンだと思っている・・・だからこうやって観続けているし、評価もしている。

学生のお遊びに金を払わされているのかという意見もあるが、そのお遊びを劇空間に取り入れている事の価値がそこにはあると思っている。
こうやって書いてきて思うのは、えんぺのレビューで書かれていることは間違っていなくて、それを肯定できるか、できないかの問題。
そして、今回の作品にはその学生的な遊びが不十分であった為に、下手な芝居と写ってしまったのだろう、私もそう感じた。

劇団メンバーが我も我もと積み重ねていく笑いの創発的シンセシスが次回は観れることを期待。
今回の作品で、ラブリーが否定されることを私は望まないし、消えて欲しくない劇団なので、こういう形で応援しておく。
久米さんと聡元さんの笑いを是非、次回。

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2005年06月06日

ポかリン記憶舎『短い声で』

五反田にある東京デザインセンターガレリアホールにてポかリン記憶舎の第12回公演「短い声で」を鑑賞・・・本日、昼間公演は、終演後にアフタートークがあるということで、どうせ観るならついでに・・・という気持ちで馳せ参じる。

高知県立美術館との共催という形をとる今回の作品・・・来週には高知県にて上演される本作品、作・演出の明神慈氏の故郷に錦を飾る的凱旋公演になるということ。
美術館での上演を考慮に入れて制作された作品だったのでしょう・・・東京公演のデザインセンター地下も作品を展示することを目的にしているホールだったので、芸術作品を巡る物語との親和性は非常に高かったように思われました。
ちなみに、高知での公演では舞台美術や観客の配置など全く変わるそうです・・・高知近隣の方はその変化も見ものかも知れませんね。

物語は、星野という造形作家の個展前夜から始まる・・・彼の造形物を囲んで、友人であり作品の照明を担当する男やお手伝いでやって来た芸大の後輩達、打ち合わせをしに来たテレビ局の女性・・・星野の帰りを待っている彼らの元に懸かってくる一本の電話が、彼の交通事故を知らせる。
星野は海外に急遽行っているというアリバイをでっち上げ、その個展を続ける人達の関係・・・星野オブジェの質感を中心に描かれていく。

ポかリン記憶舎は地上3cmに浮かぶ楽園という言葉を掲げて作品制作を続けておられます。
作演の明神氏は着物にも造詣が深いようで、当日は着物割引が用意されていたり、受付の女性陣は全員着物姿という徹底ぶり・・・着物フェチっぽい私はそれだけでいい気分・・・。
と、話はズレましたけど、地上3cm浮ききっていないなぁというのが今回の作品の印象・・・前半と最後の最後はちゃんと浮いていたと思いましたが、中盤がなんか違った。
まぁ、浮いていたというのはとっても表現が不確かなのですが、分かりやすくすれば、ポかリン的な表現美がそこにあったか否か・・・私が今回、ポかリン的ってこういう事なのか?って思ったのは「音」が聞こえるかどうか、なのではないかと感じました。

音楽は木並和彦氏作曲のアンビエントな曲が始終薄く流れてはいるのですが、それはもやは環境であって、ポかリン的な「音」とは聞こえない「効果音」のようなものだと考えられます。
それは、会話の間が響かせる琴線であったり、身体の流れが揺らす空気の振動であったり・・・また、役者の心の声であったりもする訳です。
そういう聞こえない「音」を聞かせようという試みがポかリン記憶舎であって、観客は静けさの中に転がる音の欠片を拾い集める作業に参加させられているのであると・・・。
そしてまた、物語自体もその聞こえない「音」を聞くために流れていくように思われました。
そう定義してから今回の作品を振り返ってみると、星野という作家の痕跡としての「音」を聞く為に動いている人が多かったような・・・。

という風に、ポかリン的演出を読み解いておいて、その「音」が流れている空間が、見えない世界であって、それこそが3cmに浮かぶ不安定感ともなるのではないか。
今回はその聞こえない「音」が聞こえない時間が結構長かった・・・特に中盤から後半にかけて、いろいろな人が集まり会話を展開し始めてからは、会話という雑踏にかき消されて「音」が読み取れなくなってしまった・・・きっと、音は出ていなかったと思う。
あまりにも下世話でリアルな人間関係が入り込んでしまって、もはや地上の話を展開しているに過ぎなくなってしまい、楽園としての空気が全く無くなっていた。
前半は良い雰囲気を出しているだけに勿体無い・・・聞こえない音にとって日常はノイズなんでしょう。

そういう意味で今回は浮ききれていなかった。
ただし、流石だと思うのは、最後の1分で一気に観客を引き込んでいったこと・・・やはりポかリンメソッドの強さであり、独特の空気感と聞こえない「音」を聞かせる技術、お見事でした。
今回は登場人物が必要以上に多かったです・・・もっと洗練できるかな?と思ってみたり。

美術館での美術品を中心に据えた物語ということで、実際にそのオブジェと照明を使った作品を見せる場面があります・・・照明が美しい。
照明が音を鳴らしているとは言いませんけども、語っているのは確か・・・照明自体が見るのもオペレーターをするのも得意では無いので、何とも言い難いのですが、綺麗だなぁって素直に思う。
balance.incの木藤歩氏・・・全然知らないのですが、活躍著しいらしい・・・照明に興味がある人はチェックするべき人物なのかもしれませんね。

アフタートークは、お母さん役で出演されていた桜井昭子さんと明神氏のトーク。
今回の作品と明神さんと桜井さんの出会いの経緯とポかリンの稽古場での雰囲気やらどんな練習をしているのか・・・フラフープを使った練習は「ふーん・・・」っていう印象、今度試しに練習でやってみるか。
ほんわかした雰囲気で良し、一生懸命メモするような話も無く、終始和やかな感じ。
終了後に、オブジェに上ってしまいました・・・作中同様にその上で音を感じる。

作品自体には疑問符が多少付いておりますが・・・受付のスタイルや会場の使い方、スタッフワークからアフタートークなどお客様に楽しんでもらおう、ポかリンを味わってもらおうという並々ならぬ姿勢が伝わってきて全体としては十分に満足できる作品。
ぜひ、高知公演のレビューを読んでみたいと思いますので、観覧した方はお知らせくださいませ。

>>fringe blog
制作者支援サイトということもあり、スッタフワークや劇場の使い方といった話題が中心。
確かに、今回の作品は場所や設定など物語とは違うところでの見ごたえがある作品だったと思います・・・そういう点では非常に勉強になりました。
制作などを志す方は見ておいて損の無いクオリティーでしたね。

>>目には青葉
「今回はあまり浮いていなかった。」という私と全く同じ意見が表題に書かれています。
今回の文章を書く前に読んでいて「やられた~」なんて思いましたけど、同じ感情を抱いた人がいるという証拠物件としてリンクしておきます。
是非、あわせて読んでは如何でしょうか?

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2005年06月03日

コスモル『あくたりあくちゃり』

全くもって遠い劇場、ウエストエンドスタジオに今週2回目の出動、コスモルの2005年マレーばく公演「あくたりあくちゃり」を観に行ってきました~。

なんて言うのかなぁ~~話のまとまりとかそういうのは全然分からなかったのですが、終始面白いお芝居だったです・・・ずっとニヤニヤしてました、きっと。
元レディースで親友だった3人の女が男を切欠に別れ離れに、その娘2人も・・・というように友情みたいなのが基本テーマだったようですが、そんな胡散臭いテーマは二の次。
女性が沢山出てくる芝居だったのですが、そのパワーが凄い・・・劇団自体も構成メンバーが女性2人ということで、女性視点ってのがこの劇団を語る上での鍵になっているのかもしれませんね。
何しろ、終始声を張っている印象、アンケートに喉を大切にって書いてしまうくらい・・・声が大きくて良かったと思います。

ドタバタ劇なので、まずはその勢いとかパワーが強みなのですが、加えて途中にダンスとか歌、映像を使ったりと、視覚的にも聴覚的にも楽しませてくれる工夫・・・口から噴出した水も懸かりました・・・。
というように、ドタバタで観客が疲れているところに、ちゃんとしんみりしたシーンを入れたり、ダンスや歌を入れて休憩タイミングを入れてくれる・・・意図しての事かは定かではないですが、良い緩急を生み出していたと思う。

美術は無し!舞台には工事現場の鉄組みみたいなのが置かれていて、そこの上と下で物語は進んでいく。
まぁ動きますからね・・・下手にモノとか置いてあったら邪魔でしょうがないでしょうし、そもそも劇風が勢いで見せるタイプなので、そこに具体的なイメージなど入る余地も無い。
殆ど風景みたいなものが私には見えてきませんでしたから・・・きっと役者にもそういう状況の設定のようなものは与えられてないのでしょう、そこが部屋なのか道端なのか・・・よく分からない・・・けど、そんなのは気にもならない。

物語がどうのこうのとか、役者がどうのうこうのう言う前に、私にとって印象的だったのは、型破りな表現の数々。
というか、型にはまっていないという表現の方が適当かも知れない・・・統一感のまるでない、おもちゃ箱をひっくり返してそのままのような型の無さ。
何が飛び出てくるのか、まったく想像できない・・・次、次と、どんどん先の演出が気になっていく舞台でした。
そこには、統一感も無ければ、何を意味したいのかも掴めないのですが、その掴み所の無さが、新鮮であり、また興味を惹かれる部分であったと思います。

私の想像の範囲外、私の中に共通言語が存在しない感じ・・・解釈できないけど、心地よい。

本日のお客さんは反応がいまいち?・・・面白いところ沢山あったのに、会場の反応は微妙~~、私はすっごい沢山笑ってました、あと左後ろにも良く笑う人いたかな?。
あのお芝居と内容だったら、もっと笑いが起きても良さそうなものでしたが・・・はて?

気になった点を挙げるなら、ヤンキーものという事もあって、台詞が聞き取りづらいところあり、ある程度テンション落として、ある程度聞こえるように話す必要もあるかも・・・。
それも一因だと思いますが、お客さんを置いてきぼりにしてしまっている節がチラホラ・・・そういうところでのめり込めずに笑いが薄くなってしまったのかもしれない。

千秋楽に向かって、更に洗練されていくことを願います。

ハッキリ言って、良いお芝居見たと思っています・・・上手いとかじゃなくて「希有な」という意味においてですが、それは立派な誉め言葉のつもりです。
お客さんを忘れない視点がもっとしっかりしてくれば、面白い劇団になる気もしてくる。
演劇的な正統を求めてはいけないし、コスモラーの石橋和加子さんのひと言にもあるように「コスモルは芝居でない。」ということを受け入れると楽しめるのでは?・・・芝居的ではあるし、ちゃんと芝居なのですが・・・。
なんか、普通に満足している私がいます・・・粗もあるけど、まぁいいか!

タイトルの「あくたりあくちゃり」ですが、お芝居を観ても最後まで意味分からず・・・まぁいいか!

役者陣は、かなり粒ぞろい・・・殆どが客演なのでしょうけど、コスモルのメンバー砂糖マキさんを始め、ヤク中の男を演じる門田純さん(カッコイイし、芝居上手い、野田風の子供喋り◎)、あと女子高生役の2人も良かったなぁ(役者の情報殆ど無し)。
あと、最近危婦人に出ているBENTAさんも好演・・・楽しかった。

そんな舞台でした・・・。
最後に砂糖マキさんがカーテンコールに1人で出てきて、「終わり~拍手~!」って言ったのが衝撃・・・なんて型破り何や~~!!

そうそう、お芝居を観てる時に感じた事で、書き忘れていたので追記しておきますが、昔テレビ東京でやっていたバミリオン・プレジャー・ナイトという番組のテイストに似ているなぁ~って感じがしました。
あくまでも雰囲気ですが、ノリとか表現手段が・・・私、あの番組大好きだったもので・・・。
石橋義正監督のテイストと同じとは言い難いですが、彼のポップでは無い方向性の作品と似た匂いを感じます。

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2005年06月02日

チャリカルキ『そこは、山中山君の席。』

中野の劇場MOMOに劇団チャリカルキの第11回公演「そこは、山中山君の席。」を観に行ってきました。

舞台は小さなカフェレストラン、カウンター席が3つと下手に2席・・・上手にもテーブルが一式備わっているのですが、そこには予約席のプレート、そこは何時来るのか分からない客の為に予約されている。
従業員は4人、主人公である店長を中心に中華料理をつくるコックとウェイターの女性、ムードメーカー的な男・・・。
前半は、このカフェが作られた理由とかが明らかになりながら、ほんわかしか雰囲気で進んでいく。
このまま人情劇のような匂いで進んでいくのかなぁ?と思っていたのですが、後半で大きく展開。

なんで部屋の壁に取っ手が沢山ついているのかなぁ?って思っていたのですが、そうなる訳か~。

全体的に演技はあんまり上手くない、数人の役者が物語を引っ張っていっていた。
それと、物語と演出方法に助けられていた印象・・・起承転結っていう物語の基本的な展開を丁寧に踏襲している感じ、複雑な設定もなく、物語らしい物語をお芝居に仕立てていったという感じです。
物語も対象を選ばずに、若い人からお年寄りまで、それなりに楽しめる雰囲気。
そして、その不思議な物語を実現する演出方法・・・お芝居らしい役者の使い方は面白いと思った。

ネタバレをすると、カフェレストランも、隣のファミレスの従業員も、実は主人公以外のカフェのスタッフも・・・みんな虚構の存在という話。
主人公は4重人格で、その人格それぞれに役者が割り振られている・・・他の人には1人の人にしか見えない、けど主人公には同時に全員が認識できる(頭の中の像として)。
前半、いろいろと不思議な演出が入ったり、料理が出てくるのが遅かったりっていう伏線があって、それにはあんまり気を向けてはいなかったのですが、後半、それが明らかになるところでそれらが効いてくる。
全ては、彼の治療の一環として仕立てられた舞台であって、隣のファミレスも存在しないし、カフェレストランも内側だけがそれっぽくて、それは倉庫の中にまさに舞台として作り上げられているに過ぎない。

そういう物語の運び方、伏線と結果の関係・・・役者の使い方、作・演出のレベルでは水準はクリアしている。

それを踏まえた上で言いたいことは、作品としての毒のようなものが見えなかった。
毒っていうのは、毒舌とかそういう意味ではなくて、観客に仕掛けられた劇団としての、作品としての毒・・・観客の中に浸透して諸感覚を刺激するような要素が見えなかったということ。
物語を見せてもらったという感覚で劇場を出た・・・それは劇団チャリカルキのお芝居ということではなくて、上手い物語、丁寧な演出・・・とってもスタンダードに準えたお手本的物語のお芝居という感覚。
それは、透明な水みたいなもので、スッと飲めるけれども、後に残らない・・・蛇口を捻ると出てくる水、体には大切だけど、あまりにもスタンダードで誰も価値を見出さないそれ。

今回の舞台は、そんなスタンダードな水分という言葉で言い換えたいものでした。

毒の1つも入っていて欲しい・・・コカコーラでもコーヒーでも、美味いものには毒がある・・・でもそれが、きっとアイデンティティーみたいなものなんだと思うし、表現者には常にそれを意識する姿勢を貫いて欲しい。
いろいろな場面で、やっぱりこの毒っていうものを大切にするべきだと思う。

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2005年06月01日

山の手事情社『銀河鉄道の夜』

東京芸術劇場小ホール1に山の手事情社の「銀河鉄道の夜」を見て参りました。

こちらの劇団は初めてです・・・宮沢賢治の代表作とも言える「銀河鉄道の夜」の劇化ということで、多少思い入れのある本作品をどう演出してくれるのか?という期待の中、出向いてまいりました。

山の手事情社は、つくり手の持つ抽象的なイメージを生理的に体感するという演劇の本質を中心に、演劇の全ての要素を奉仕させるという理念で活動しているそうです。
その理念から生み出される作品は、演劇の現代詩とも形容される独自の舞台作品を発表し続けているということ・・・。
上記の劇団コンセプトを読むと、今回の「銀河鉄道の夜」もその理念を忠実に踏襲しながら、その中で前衛的な試みを組み込んでいるという態度が如実に伝わってきました。

もっと大衆向けの作品を作っているのかと勝手に思っていたのですが、かなり実験的な作品だったと思います・・・人は大入満員だったのですが、果たしてどれくらいの人が納得できたでしょうか?
少なくとも私の周囲にはコックリコックリしている人がチラホラ・・・だからといって、お芝居がつまらない訳じゃなくて、単純に面白くないだけ・・・見ているだけで面白いっていう作品では無かったですからね。
現代詩ということからも想像できますが、詩的なイメージで物語が綴られていきます・・・演劇の要素を総動員して劇的体験を作り出していくわけですが、どう考えても玄人向け・・・要素を総動員するからには、その要素が理解できている観客が必要ですよね。
いろいろな形の劇的なるものを積極的に見慣れている観客には、カテゴライズという作業が可能ではあるのですが、お芝居が好きというだけの人には余分なものが多いという印象で終わってしまっているのでは?と考えました。
それを乗り越えて面白い作品になっていれば良いと思うのですが、そういう大衆への措置は感じられず・・・そういうポジションは求めていないのが伝わってきました。

決して受身で見る作品ではなかったと思います・・・詩という例えは良いのですが、そこにはやはり積極的に物語を解釈して自分の言葉に変換する作業を強要するように思う訳です。
「銀河鉄道の夜」というあまりにもメジャーな文学作品を、あそこまで解体させてしまっているのは私個人としては面白かったのですが、メジャーな銀河鉄道の夜を見に来た観客の頭にはハテナマークが点灯しているのではと想像しました。
呑気に寝ている人は、そういうハテナマークを従順に受け入れた結果と思います・・・眠たくなったというよりは敢えて寝たのではないでしょうか?・・・だって、あれだけ音楽がガンガン鳴っている中で起きる気配なかったし~~。

作品の話に入っていきます・・・。
開場は開演の10分前、演出上の理由でこういうタイムスケジュールとの事・・・開場には赤い照明が点灯されており、その照明がゆっくりと明滅を繰り返している・・・綺麗。
舞台には、布きれが大量に散乱、上手には赤い布に覆われた巨大な階段・・・舞台下手から中央にかけては細長い箱が設置されている、これは鉄道の車内を表現している。

舞台は、身体表現がかなり強調されているし、カムパネルラとジョバンニを1人の人物が演じ分ける・・・とはいえ、常に隣にもう1人役者が付いている・・・しかし彼はト書きを話すだけで、役者としての台詞を話す訳ではない。
この存在は「文章」という役を与えられている。
そのお陰で、演劇的というよりは、小説的な作品だと思った・・・このト書きというのは、小説でいうところの状況を説明したり感情を説明する部分のこと。
普通なら役者の演技やモノローグで説明しなければならないところを、あえてそういう役回りを設定してしまう・・・演出上、役者は台詞が解体されてして、且つダンス的な身体表現に注力させられるので、どうしても感情面での表現、伝達が疎かになる・・・そこを言葉で説明してしまうのは分かりやすくてよい。
ま、それ自体もかなり演出されていて、字幕のような違和感がある手法ではなく、それを含めての演出という形になっているので、すんなり受け入れられた。

照明や音響も多用されていて、場面展開ではかなりこちらにウェイトが置かれる・・・緩急という意味では良いと思う、どんな意味があるのかはよく分からなかったけれど。
演劇の要素を総動員するというスタンスはちゃんと守られていますね・・・ほんと、どれもハイクオリティーだったですね、前衛的な芝居としてはバランス感覚に優れていて、大衆寄りではあると思います・・・とはいえ、なかなか難しいとは思いましたが。

パンフレットには、演出の安田雅弘氏の言葉が記されている。
宮沢賢治の作品には、現代社会がどのようにあるべきかについての深い考察が潜んでいるとし、銀河鉄道が未だ走っているという仮説を立て、舞台上に「走る銀河鉄道」を表出させて、生理的に体験をすることが演劇人である作家にとっての宮沢賢治との出会いであると語っている。
そして、それは劇を通しての観客と宮沢賢治との出会いでもあると言えるだろう。
写像としての宮沢賢治であり銀河鉄道の夜ではあるが、それを積極的に受容する必要が観客にはあって、今回の山の手事情社の作品を観た限りにおいて演出家が描いた断片を見てこそ、そこに銀河鉄道の夜の思想が埋め込まれている・・・そして、それを要求する作品であった。

その断片の1つが、車窓から見える荒れ果てた土地・・・現代の荒廃の中を銀河鉄道は未来の希望に向かって走りつづけていく・・・理想という夢を追いかけるジョバンニの姿が救いとして描かれる。
私が同乗する銀河鉄道の窓の外には、荒れた土地とどんよりとした空が広がっていたように感じた・・・あんなにも華やかで力強い舞台から伝わってきたこの匂い・・・断片。

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posted by yositosi at : 22:37 | コメント (0) | トラックバック (0)