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2005年04月29日

冨士山アネット『PiNQ』

浅草にあるウンコビルに冨士山アネットの「PiNQ」という作品を観に行ってきました。

ウンコビルというのはアサヒビールのスーパードライホールのこと、私は小さい頃からあれの事をウンコビルと言っていましたし、巷でもこの名称でかなり通じます。
そのビルの中の劇場といいますかフリースペースのようなところ「Asahiアートスクエア」にて行われました。
冨士山アネットは、作・演出・振付の長谷川寧と、衣裳パフォーマー山下和美によるユニット。
斬新なチラシで毎回気になっていたのですが、今回招待券が手に入りましたので期待して見に行ってきました。
ホームページにも過去作品の写真が載っておりますけど、それを見る限りではアートな方向がかなり強い・・・アート系にもかなり注目している私としては、チェックしない訳にも行かないですしね。

とっても横に長い舞台・・・同様に客席も横に長く配置されている。
ここまで横に長いくて縦に短い舞台は、観客の視点をかなり気にして使い方を工夫しないと、すっごい観づらい作品になりそうな気がしました。
真ん中の席は埋まっていたので、かなり左サイドの席を取る・・・全体は観れるのでまぁ大丈夫だろ・・・。

蓋を開けるとビックリ、めっちゃくちゃに観づらい・・・なんでかって言うと、アイテムとして可動式の白い箱を5つぐらい使うのですが、これが舞台に出てくるとその向こう側が見えなくなる。
この箱を使ったパフォーマンスがかなり多かったので、自分の方が見やすいときは、向こうサイドが見づらくて・・・しかも、真ん中の人が完璧に作品が観れたとも思えない。
結局、どこからみても見づらく作品・・・観客の視点を大切にするというのが無くて、自分達の満足で動いているという印象。
衣装は素晴らしいと思いますし、キッチュな悪夢というのも伝わってきます。
パフォーマンスとしての側面がかなり強いので、そこが高いクオリティーになっていれば作品全体の印象も良かったのですが、問題としては見辛い+テンポ悪いで観れたものではない。

可動式の大きな箱や巨大な階段を定位置に持っていくだけで苦労しているという印象・・・どころか完全にそうだ。
もしも、そこが良ければアートパフォーマンス的舞台芸術として良質なものになると思います・・・だって、箱が登場し始める場面までは、なかなかに期待の持てる作品でしたから・・・。
全ては箱に原因があります・・・展開が全くなくなる・・・それを準備する間が完璧に芝居としてのリズムを壊しているし、きっと芸術としてのリズムもそうだと思う。
これまでの作品がどんなものだったのかは知らないので、何とも言いかねるのですが・・・舞台を場面で動かすというのは演劇としてかなり難しいテクニックであって、極力したくない作業なのです。
逆にそこを上手くやっていると感動できるのですが、今回に関してはもしも演劇のタブーに挑戦したつもりは無いにしても、完璧に作品として不可能なアイデアを用いているのです。

あれが、テンポ良く、美しく出来ていたら、きっと凄いですが・・・きっと無理だと思う。
少なくとも、作演の方が演劇の基本を分かっていない、その状態で良質なものが出てくるとは思えないし、そこから独創的なものが出てくる可能性は多分にあるけれども、正直こちらのユニットからはそういう期待は持てなかった。

やりたい方向も伝わってくるし、センスの良いアーティストが関わっているという気はする・・・だからこそ、演劇というものを分かって欲しい。
アート路線だから、そんなものが分からなくても良いって言ったらお仕舞いだと思います。
演劇ではなくアートを目指すならば、だからこそ演劇の良さや基礎を取り入れるべきですし、その先にアートとして新しい世界が見えてくると思うのです。
それが、境界領域での取り組みのむずかしさでもありますし、評価も簡単ではありません・・・。
だからこそ、アートと演劇で120%を出さなくてはなりません・・・その時、評価されることになるでしょう。
今まだ、演劇で30%でアートが70%だとすると平均して得点的には50点・・・誰も見ないですし、見ても評価はしてくれないでしょうね。

もっとお芝居勉強してください・・・良いもの持ってるんだから、新しい事を期待したくなる劇団だとは思いましたよ。

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東京サギまがい『お化け屋敷の中~断髪したライオン達~』

新宿・タイニイアリスにて東京サギまがい、ゲツメンチャクリクVOL1『お化け屋敷の中~断髪したライオン達~』を見てきましたぁ。
東京サギまがいは、たけし軍団のダンカンが中心となって運営されている劇団とのこと、劇団創設の裏話みたいな話は、タイニイアリスのインタビュー記事に書かれていますので、ぜひそちらをご覧ください。

こちらはタレントのダンカンが作・演出をしている劇団・・・コメディー+時事問題ということ、ゲツメンチャクリクは劇団の若手公演ということで、まさに鬼のいぬ間にという公演。
副座長である山田能龍氏が演出を担当し、文芸部の後藤隆征氏が台本を書いたということで、ダンカンの息はあまり掛かっていない作品のようです。

役者陣をみると劇団というよりもタレント事務所的な側面が強いような印象を持ちました。
裏にサンミュージックとかオフィス北野も噛んでいるようなので、多少そういう意図は図らずも入ってしまっているのではないでしょうか?
舞台役者というよりも映画などの方向に意識が向いている印象、特に男性は良い顔立ちの方が多くて男らしさの強い人が多かった。
だからこそ、任侠ものが出来るのだと思いますよ・・・ああいう雰囲気は、顔が持っている力ってのが必要で付け焼刃でできるとは到底思えませんから・・・。

正直言って、北野武の映画の匂いが一瞬してきて・・・彼の映画は必ずやくざが出てきて、その暴力とか人情みたいなもので物語を作っていく印象があるでしょう?
本作品も、やくざ者たちが街のお化け屋敷を買い上げるという構図になっている。
そこに、何らかのつながりがあるのではないか?と考えたのは私だけでしょうか?

基本、ハートフルコメディーという劇団の路線は外れていないので単純に楽しめる作品・・・。
キャラクターとそれらの関係から紡ぎだされる笑い・・・観客の意表を突くわけでもなく、ただただシンプルで王道の笑いを提供してくれる。
そういう意味では、ビートたけしとかたけし軍団の笑いに通じるものはあると思いますよ。
何しろ、ダンカンが率いている劇団ですから、テクニック的な部分で踏襲しているものは必ずあるでしょう。
笑いの形としては、最近の変形型とかスピードが好まれる時代の中で古い印象は拭いきれない・・・年齢指定をするならば、多少設定は高いと思います。

馬鹿みたいに面白い訳じゃないのですが、ハートフルを求める方にはお勧めできると思いますよ。
男性陣に良い人が集まっているので、男の男らしいハートフルという言葉にビビ!っと来る方は是非見に行っていただければと思います。

まぁ若手公演なので、本公演はどうなのかちょっと定かではないですが・・・。

任侠ものの素晴らしさって、人を殺すって事が全くテーマにならないことですよね。
人の死ってそれだけでテーマ化されるのに、北野の映画から始まって今回の公演にしても人が人によって殺されても、それは道具でしかなくてメッセージにはならない。
暴力とか殺しとかが語られるのに、この作品は、ハートフルでしかない。
観る人の中の常識に敢えて乗ってしまう・・・やくざの世界では、それらが道具であって、それが彼らの自己表現であって美しさであると、多くの人が知っている。
人を殺すことで人生が終わる世界ではなく、彼らにとってはそれによって始まる世界なのではないでしょうか?
だからこそ、ああいう形で物語が終わっても、嫌な思いは残らなくてすむ・・・そういう手法なんでしょうね。

北野武の映画って良いよねぇ~本気で・・・改めて感じた演劇作品でした。

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2005年04月28日

売込隊ビーム『大家族スペシャル』

パルテノン多摩の4作品目・・・売込隊ビーム「大家族スペシャル」を拝見。

久しぶりの騙されお芝居でした・・・ここまで表面と中身のギャップがある劇団も珍しいと思います。
珍しいから、良いという意味では全くございません・・・というか、問題だと思います。
チラシとかホームページといった劇団の広報戦略から、その劇団の質を見極める事が多い私なのですが、今回もそういう期待をさせられたタイプの劇団。

ラーメンマニアの方がテレビで語っていたのですが、美味い店は軒先を見れば大体分かるっていうぐらい、外見ってのは大切で、それがつまりお客様へのスタンスだから。
自分達の言葉を形にする作業であり、自分達が取り組む世界をデザインに転化する試みがチラシに始まる広報の作業でしょう?
お客が集まる為なら、どんなにそれが実態と離れていても、より多くの人が興味を持ちそうな良いチラシを作れば良い!って考えがちですが、広告なんてのはマッチング問題みたいなもので○と○を引き合わせるもので、○と×を引き合わせてはいけないと思うのだよね。
○のところに○を求めている人が来れば万歳ですが、×を求める人だった場合に「合わなかった」という評価無しだけでなくて、期待した分マイナスに振れるという現象が絶対に起こってると思うのですよ。

今回の売込隊ビームが当にそうで、チラシとかHP、更にはパンフレットなどのクオリティーが非常に高い・・・それは良いことだ。
デザインが秀逸であるし、トータルのコーディネートも良い。
正直に言って、かなり期待していたし、しかもデザイン重視のスタイリッシュ系なのかな?って思ってたわけ。

蓋を開けたらさ~スタイリッシュどころか下町人情系の変型といったテイスト。
お笑い芸人の実家の茶の間を中心とした人情もの・・・そこを行き来する人々の悲喜こもごもが連なっても物語を形成しているという感じ。
舞台の中に、このチラシのセンスを髣髴とさせるシーンとか言葉が無くて、完全にそれぞれが乖離している印象・・・。
かっこいいチラシを作れる力はあるのでしょうけど、そこにギャップがあるとイメージが崩れる分、芝居へ多少影響する。
作品としては、笑いもあってしんみりもあってバランスの良い良作ではあったのだが、何しろ期待を裏切られた事実から立ち直れなかった。
自分の等身大を丁寧に語れる力ってさ、面接でも重要でさ・・・見る人はそこにズレがあると敏感に感じるもので、だからやっぱりそういう事を考えるべきでしょう。
ビジュアル的な特性の強い人間なので・・・こういうところがやたら気になるのです・・・すいません。

舞台構成は・・・。
下手(しもて)に回り舞台があって、そこを使って寄席の風景とか家の二階とか・・・別のシーンを簡単に描いていく。
ここの使い方が物語の展開上かなり重要になっていて、シーンの繋ぎに使うことが多かった。
視点の切り替えをさせて、その間に本ステージの準備をするといった舞台の利用の方法は、具体と抽象を混在させて両方の欠点を補い合うって感じで、手法としては珍しい訳ではないけれども、ふーん上手く使えるものだなっていう実感でした。

物語は、お笑いの「間違いない!」っていう流行に乗ってか乗らずか、「かもしれない」という言い切らない言葉で一躍有名になったお笑い芸人を中心に周りの人々の関わりを描く。
この「かもしれない」っていう言い回しで有名になった芸人が、記憶障害の病気になり、そもそもの記憶がかもしれないという曖昧に落ち込んでいくという恐さを描いている作品。
その「かもしれない」がどちらの「かもしれない」なのか分からなくなる・・・周りの人間にとってこの特殊な状況はその芸人の心を探れないという恐さになる。

言い切らない時代ってのは確かで、私は「微妙」って言葉が嫌いなんですが、それも自分で責任を取らない言葉の1つ・・・。
そんな言い切らない言葉しか使えない男が、その言葉に確信が持てなくなった瞬間に、それはただの言葉に成り下がる・・・それは芸人としての男の否定になっていく。
それが「死ぬかもしれない」の芸が「死ぬ」芸に言い換えられる事からも分かる・・・それがつまり否定であって、それを宣言するシーンでの言葉が、芸人である彼にとっての最終原稿になる。
その死ぬ芸が、死へとクロスフェードしていく・・・女の「私の名前がわかる?」という問いかけに「~~かもしれない」という言葉で答える男。

かもしれないという言葉が、彼女にとっての悲しみという確信に置き換えられる瞬間、かもしれないという言い切らない言葉は、曖昧の美しさを持つ。
組み上げられた物語が、「かもしれない」のつまらなさから美しさへと収束していくのは心地よい。

こういう日常のありふれた言葉を、ある場面においての異質触れさせて、感動的に振舞わせたのは秀逸。

「かもしれない」で物語を描くという視点は、私の感覚から判断すると面白いと思われる。
ただし、作られた物語が、物語として面白いかというと違う。
感動も笑いも飛び出なくて、終始、かもしれないという曖昧な舞台に対峙させられていた印象。
果たして、この物語はどこを目指していたのか・・・コンセプトが曖昧。

なんとも微妙な結末で終わったような気がする・・・かもしれない。

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2005年04月27日

ポツドール『愛の渦』

新宿シアタートップスに行ってきました・・・話題のポツドールの公演「愛の渦」を観劇に・・・。
まぁ、話題っていうのはもう随分前の話で、すでにその「話題」は、ある程度常識になりつつあるように感じましたね。
とはいえ、最近演劇を積極的に見始めた私としては、それは話題の延長線上の今であります。

演劇的なものを最大限に排除したドキュメンタリータッチの作品・・・巷ではセミドキュメントって言われているそうです。
役者を過剰なまでの現実に引きずり込む事でそこにリアリティーを発現させるという手法、リアルを緻密に演出するトップダウン的な演劇(平田オリザに代表される)に対して、こちらは役者から生み出されるボトムアップ的なリアルと言い換えられるだろう。
その手法は全く異なるものの、目指す土地は同じなのかもしれません・・・ただし、異なる手法で例え同じ場所に辿り着いたとしても、やっぱりそこに現れる意味とか価値なんかは全然違うものとなるだろう。
それは観客にとっても同じで、プロセスこそが表現の本質であるという観点に立つとすれば、それを同時間で感じさせられる私たちも、結局はプロセスに組み込まれていると言わざるおえない。
そして、結果として得られる意味も、違うものなのである。

本作品は、乱交パーティーが開催される部屋が舞台である。
1人、また1人と男女が現れ、店のあんちゃんにお金を払うところから始まる。
パラパラの音楽がガンガンにかけられているので、何を言っているのかは全然分からない。
その部分に限らず、全体を通して声が小さい為、私まで話が伝わってこない。
動いているのは分かるのだが、表情すら読み取れない・・・席が後ろの後ろだったので、そこのところは残念。
結局、距離感の所為かリアリティーの現場にいるというよりは、覗き見的な感覚の方が強くなってしまって、ポツドールの本質から離れているのかも知れないと考える。
馬鹿みたいに大きな声で話すのはリアルじゃないので良いのやけど、限度があるだろうっていう聞こえ難さ。
だったら、もっと前で見ろ!早く予約しろ!って事なんですが・・・喘ぎ声はバッチリでしたよ。

ボトムアップのリアリティーということで、現場に引きずり込まれた役者達がその現場を体感するという行為によって現実をエミュレートする。
そして、強烈な現実感は結局肉体と隣り合わせにあるというのは疑いようも無いし、だからこそポツドールは性を通して肉体を刺激し、そこから放たれる匂いに現実を見出す訳だ。
性、しかも肉体を通して見るそれは、虚構を演じる役者達にとっては自己崩壊を引き起こすスイッチとなるし、役者が自分の中の自身を見つめるというループとも言える・・・簡潔に言うならば、心と肉体の対話である。
役者にとっては、芝居としてそれを余儀なくされる訳であるし、本質はそれを乗り越える部分にある。
そして、そんな役者を通して観客も自己省察の状態に陥れられるし、結論としては、それこそがこの舞台における最高のリアリティーとなる。

何しろ、観客自身の中にそれは芽生えるのだから・・・。

ただし、今回は席があまりにも後ろだった為か、私の中に何かが芽生えるというよりは、乱交を覗いている居心地の悪さの方が強かった。
上記の論理に立てば、役者との距離は隣のリアルとの距離だからね・・・この手の場合、手ごろなポジション取りは重要かもしれないな。
どのレベルのリアルを選択するのか・・・ということにおいて・・・。

部屋のロフト部分で性行為は行われるのですけど、シアタートップスの後ろの方って随分高い位置じゃないですか・・・見えてるし~~。
頑張ってました・・・どこまでリアルかは知らないのですけど、男のアレは見えましたよ~。
会場におじいちゃんが1人で見に来ていて、「大丈夫かいなぁ」って思ってましたけど、案の定途中退室・・・まぁなぁ、あれは目に毒です。

リアルリアル・・・と書いてきましたが、正直に言って「うん?」っと首を傾げる場面も多々、この「うん?」という部分がセミドキュメントのセミの由来でしょうか?
思っていたよりも笑いの部分が多かったのですが、別に面白い訳じゃない・・・結局のところ笑えないと救いようが無いのですよ・・・観客的に・・・。
ドキュメントとしてですよ、性交渉が描かれるのですが、本気でやられたら芝居じゃない・・・観客はリアルが見たいなのではなくて、やっぱり舞台が見たいのだから。
であるから、観客は笑う・・・描かれるリアル的なものを頑張って否定しようとする。
そういう空気を感じたし、私もそうしていた。

そして、ポツドールも分かっている・・・だから、笑わせる。
ボトムアップ的に築きあげるリアルを、自ら否定する行為をする・・・何故なら、それが自分達を守る術だから・・・ポツドールをポツドールと称する術だから・・・セミの原因であり所以はそこにある。

最後、朝のシーンはなんとすがすがしいことか・・・これもやはり芝居としてではなくて、舞台空間としての心地の良さであり、客席の空気の変化としてである。
一夜の宴に興じた者達が日常に帰っていく・・・そしてそこは我々の日常だ。
結局のところ、そこが私たちの身近なリアルなんだよね・・・日の光に照らされる世界だよ。

最後に、店員のあんちゃんが誰もいなくなった部屋で、ズボンを下ろし、ティッシュを取る・・・暗転。
その瞬間に、観客は日常に放たれその心地の良さに晒される・・・全てはこのシーンの為にあるというぐらい秀逸なエンディングだったと思うし、その居心地の良さは、それまでに積み重ねられた心地の悪さからの反動の所為か、素晴らしいものであった。

総じてポツドールの印象は良い・・・芝居としてのクオリティーも十分である。
ただし、その術はもはや過去の遺産のような気がしてくる・・・光り輝いていないのだ。
作品の1つで全てを語るのは良くないので、もっとメッセージ性のある作品を次回は覗いてみたいと思う。

日常化した話題からの脱却が見てみたいなぁ。

>>わぁ。(驚きに満ちた小さな悲鳴)
私が書いた聞こえない言葉について、興味深い考察・・・あとフィクション空間ってのも・・・。
チェルフィッチュの役者さんらしいです・・・こちらも見なくちゃなぁ。

>>劇団ポツドールBlog
本作品のレビューを行っているサイトが一覧できます・・・。
本谷の時も沢山あると思いましたが、こちらもすごい量ですね・・・面白いのは幾つあるか。

>>ゾウの猿芝居
匿名性の時代って切り口は面白いし、なるほろ~って感じ・・・そういえば私自身も、匿名な表現に面白さを感じる昨今です。
匿名性か・・・キーワードとしてストックしておこう!

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2005年04月26日

クロカミショウネン18『サーモン大使館』

パルテノン多摩小劇場フェスティバル、本年度の第3作目はクロカミショウネン18の「サーモン大使館」でした。

なんか、客入れの時の照明がやったら綺麗だったというのが印象に残っている・・・客入れの時って、会場は普通に明かりが付いていたり、薄暗かったり・・・でも、天井に色とりどりの照明を当てていて、ここはイッツアスモールワールド?って思った。
結局、舞台の中の物語とその照明は関係ないし・・・客入れでファンタジックな気分にさせる為だけに、何台照明使ってんのじゃ!!
綺麗だから・・・いいけどさ・・・。

お芝居の内容は、そんなファンタジックさとは無縁の、ベタベタのシチュエーションコメディー・・・アイスランドの日本大使館を舞台にしたある一日のドタバタ劇・・・。
タイトルのサーモン大使館というのは、舞台となる大使館の上の階が鮭の缶詰工場(オーナーは日本人)だから・・・大使とこのオーナーが仲良い事・・・気持ち悪いくらいに。
とまぁ、物語をつらつらと語っていってもしょうがないので、テクニック的な内容にシフトさせる。

前半、笑いもそこそこに淡々と状況を作っていくシーンが続く・・・まぁネタ振りとも言い換えられるわけだが、この手のお芝居はこのネタ振りの部分が意外につまらない(当然とも言う)。
ぷよぷよっていうゲームが昔流行ったけど、あれは相手に大ダメージを与える為には、連鎖を多く積み上げていく必要があった・・・最後の1手で次々とぷよが消えていく心地よさは誰もが経験あるところであろうが、実はテクニカルなのは、この「連鎖を積む」という部分だということは改めて言わずとも分かるだろう。
シチュエーションものでも当にそうで、実はこのネタの積み方が技術である・・・ぷよぷよでも、積み方の上手い奴と下手な奴がいて、上手い奴のプレイを見ていると惚れ惚れするものだ。
結果として生まれる連鎖の良さは、100%積み方に依存する・・・だからこそ、見るべきは積み方なんだ。
結果が面白いのは当然だ・・・前半を犠牲にしているのだから、それぐらいのものは見せて欲しいし、大概見せてくれるものだ。

じゃあ、サーモン大使館の積み方はどうだったか?
正直言って、つまらなかった(笑えるのだが、新味に欠ける)・・・小ネタを散りばめて、最後まで客を飽きさせないようにはしていたけど・・・。
ネタがですね、ベタベタなんです・・・なんか懐かしいものを見ている気分になる。
ドリフ大爆笑を思い出した・・・演者の勢いとか変な動きで笑わせるというのかな、役者のテンションの高さには感動したし、最初っから最後まで声を荒げていて、のど大丈夫かな?って見ているほうが心配になるくらい。
テンション芝居というと、随分語弊が在るが、勢いでスピード感を捏造しているという印象がありました。
早く連鎖を組み上げたいという焦りでしょうか?・・・台詞が早くて聞き取れないところも多数。

体を張っている・・・これは体を痛めつけてっていう意味ではなくて、賢くない笑いという意味・・・こうなるだろうという観客の予測を丁寧に踏んでいく。
当にドリフ的・・・高木ブーが最後に椅子から転げ落ちる安息があの時代にはあったのかも知れないが、今現在ではそこにはそんなものは無くて、あるのは笑いの道具としての遺産みたいなもの。
そういう匂いがプンプンしてきた・・・大使は上島竜平に見えたし・・・この人の勢いは凄いけれど。

そんなこんなで、あんまり笑えないネタで組み上げられていく前半、決して退屈ではないがキラリと光る何かは無かったように思う。
後半、組み上げてきたネタを崩していくのは、十分に楽しい。
なんだかんだ書いてきたが、満足はできる・・・普通に楽しめる作品だし、普通に楽しみたい人にはお勧めして良いと思う。
ちゃんと万人に向けた作品だし、芝居がどうのこうのと論議することを必要としないので、気楽に楽しむことを目標に観に行けば良いだろう。
手馴れたテクニックというものを感じました・・・ある新規性を見出すというよりは、既存の道具を使ってよい作品を作っているという劇団。

笑ったなぁ・・・後半・・・バシ!バシ!。
ただ、目新しい何かは無し・・・役者もこれと言って光り輝く人は特におらず。
無難な芝居をしてしまっているという感じでしょうかね・・・そういう部分での感動は少なかったなぁ。

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2005年04月24日

衝突安全ボディー『サヨナラ』

パルテノン多摩・・・遠いなぁ・・・で衝突安全ボディー「サヨナラ」を観劇。

雨の降らない島ウキシマ?にあるクラブ・ハマナツを舞台に描かれる嘘と真実の物語。
水女と呼ばれる生物(見た目は人間の女性だけど水の中でしか生きられない)が泣く事を忘れてしまった為に、雨は降らなくなり、笑うことで太陽が照りつけ海が干上がってしまった場所。
水女を巡る男女の物語、1人は彼女に取り付かれ、1人は彼女に復讐し、そして1人は彼女を愛している。
泣く事を忘れた水女は、その感情を取り戻せるのか、そして海に帰っていけるのか?

と、物語をサラ~っと書いてきたわけですが、何ともあやふやなんですよ。
単純に、私が集中して見ていなかったとか、記憶力が悪いだけじゃない?と言われてしまいそうですが、そんな事実も多少はあるかもしれませんが、きっとこのお芝居の物語を完璧に掴めている人は、観客の中には少ないのではないだろうか?
どうしてかと言うと、物語が非常に散漫です。
先にも書いたように、水女という女性を巡るエピソードが3つぐらいあって、その先に枝分かれ的に、また物語がくっついているのです。
1時間30分のお芝居の中に、5個も6個も物語があって、でもそれが最後に1つにまとまるという事ではなくて、それぞれで完結していくという印象でした。
ですから、本当に前半は物語の主題がどこにあるのか全然掴めずにいました。
音楽と踊りを多用してお客様を楽しませるという事にはずいぶんと神経を使っているように感じられ、その部分で前半は乗り切ってしまったという言い方が正しいでしょう。
一見華やかで、面白そうに見えるのですが、ふっと我に返ってみて、華やかな部分を忘れて考えてみると、物語が良く分からない・・・って芝居を観てて30分ぐらいで感じたことです。

加えて、個性豊かな役者さんも物語を掴み辛くするのに一役買っていた気がします。
とても印象が強くて、才能を持った方々が多いなぁという印象は、始まって数分で気が付きまして、なかなか良いメンバーで構成されている劇団だ!って感心していたのですが、その良さが裏目に出てしまう結果に・・・。
役者として魅力的な人が多くて、目移りしてしまった・・・というか、誰が主役なのか全然分からず。
全てのポイントはこの主人公の不在、感情移入対象の不定にあると言い切って問題ないだろう。
個々のエピソードを丁寧に描くあまりに観客はどの物語が本筋なのか見失ってしまう。
それが1人の人間に収束するならまだしも、結局最後まで一点に完全に収まることは無かった。
多少、水女が自分を愛する男の言う事を信じ続けるというエピソードで収束を試みていて、それは十分に上手くいっていたので、何となく「良い話だった」と思わされてしまう。
が・・・翻って考えてみると、意外に水女の周辺にしても深く描かれていないことに思い至るはずだ。

サイドストーリーの妹とお兄ちゃんにやられた人が多かったのでは?

欲張り過ぎている・・・欲張りすぎてあれもこれも、としているのに客は満足できている・・・だから決して悪いことではないが、前半から中盤に掛けての人物の描き方を訓練するべきであると思う。
あれだけエピソードを盛り込んで1時間半で終わるのであるから、そりゃ薄っぺらくてしょうがない。
クオリティーの高い役者陣に支えられている印象が強いので、脚本のレベルで傑作が望まれる。
その時、衝突安全ボディーは優良な劇団の仲間入りさ!・・・私が保障します!

スタッフワークの技量はかなり高い・・・特に音響、照明あたりはテクニックとして面白いものをもっている。
衣装も素敵で、舞台に映えるクオリティーを持っていたとおもいます。
こういう細かいところの良い仕事のお陰で、全体として良いレベルを保てていたような気がします。

でもきっと、リピーター率高い劇団だと思います・・・ちゃんと楽しめるし、ちゃんと感動できる。
特に役者は魅力的だし、エンターテイメントっていう事を実践している。
老若男女、万人にお勧めできる(あ、でも若い人メイン)・・・批評には向かないけれど。
動員数は着実に増やすタイプですね・・・飽きられるという問題は孕んでるけど。
その為にも、脚本を中心にあらなるレベルアップを期待したくなる劇団かな。

お兄ちゃんの歌声に惚れました・・・CD買いました。

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青島レコード『ぼくにとどけきみのうたごえ』

世田谷はシアタートラムにて青島レコードの「ぼくにとどけきみのうたごえ」を拝見。

何とも違和感のある公演タイトル・・・なんて受動的な人間の叫びであろうか。
君に届け!なら何とも感動を誘うのであるが、僕に届け!っていうのは相手への期待が大き過ぎるし、命令口調だし・・・なんて酷いヤツだ。
想像できない状況では無いが、なんとなく言葉として破綻している気がする・・・言葉として成立していても、状況がイメージできないそれは、こんなにも人の心を揺するのか。
私は、好きだ・・・この違和感が、心地良いし、芝居の内容に照らすと更に素敵になっていく・・・。
この言葉を成立させる為に物語がある・・・そんな作品だった。

12歳で時が止まってしまった兄と大人になった弟という歪んだ関係がこの物語の全ての核になっている。
この兄弟の構図が、そのまま子供と大人という社会の構図に置き換えられて語られるのである・・・全編を通してファンタジックな色に染め上げられていて、物語に埋め込まれたメッセージに重きを置かなくてもそれなりに面白い作品として見ていけるであろう。
しかし、私は途中で物語に埋め込まれた社会への強いメッセージに気が付いた時点から、そのメッセージを読み解く作業に夢中になってしまった感はありました。
とはいえ、そのメッセージを紐解く作業と物語の進行が丁度良いペースでシンクロするので、結構心地よいものがある。

果たして時代はいつなのであろうか・・・太平洋戦争の時代から背景をペーストしてはいるが、決してリアルにそれを再現している訳ではない・・・そんな背景を利用したはてな?の時代が舞台である。
徴兵制度があり、兄弟の父親の元に赤紙が届く・・・父は夜だけ戦場に向かい敵と戦っている。
大人の弟、光安は会社の先輩が軍隊の幹部であることから、軍へと巻き込まれていく。
子供の兄、光一は夜中に1人軍隊への抗議活動をしている・・・。

軍が戦っているのは架空の敵だ・・・架空の敵は架空として確実にそこに存在する。

ファンタジックなテイストの舞台なのにそこで描かれているテーマだけを取り出すと、結構変な感じでしょう?・・・戦争ですよ。
この重くなりがちなテーマを、さらっと語ってしまう・・・裏を考えなければちょっとダークなファンタジーとして、考えれば考えるほど裏に大きな作者の言い分が隠れている。
なんて回りくどい!って思うけど、このバランス感覚は才能である・・・お子様ランチで素材に高級なものを使っているという例えが良いと思う。
子供にも大人にも全く違う視点で満足させている・・・これはプロフェッショナルの仕業といえるだろう。

戦争で死体がって言っている横で、伝説のエクスカリバーを叫ぶんですから・・・面白い。

物語の解釈に進んでいこう!。
子供の兄が弟に言うんです・・・「もっと考えろ!見えないものを見ろ!」って。
なんて強力な言葉であろうか、大人は考えなくなるんですよ・・・これは感覚的に感じてる事であるが、子供に言われると「あ~~」って溜息が漏れる。
大人は、物事を自分で考えているように思っているけど、多くの部分を常識や慣例に頼っていて実は考えることを止めているという指摘・・・これは有名な話ではありますよね。
それに対して、常識が備わっていない子供は、常に考えることで始まっている。
普通の子供はこんな事を言わないですよ「もっと考えろ!」なんて・・・大人に。
この物語の上手いところは、子供の兄と大人の弟というねじれの関係を持ち出してきた事。
子供だけど兄貴ですから、兄貴は弟の間違いに対して兄貴としての言葉で語っているんですよ。
でも、それを第三者が見ると、子供が大人に向かって発言している構図になる・・・この関係が、この物語で語られる言葉の不思議と違和感を緩和剤として吸収してしまって、スッと飲み込めるようにしてしまう。

架空の敵は存在している・・・子供の兄は考えている、だからこそ見える。
兄には見える人達とともに、兄は戦争反対運動をしかける。
大人たちは、架空の敵だ、見えないと言いつつもただ戦場に向かい戦争をしてくる。
隣にいるのに、遠くに感じるという兄貴の言葉で分かるように、これは地球で起きている戦争への提言になっているのだ。
大人たちは何も考えていない・・・どこかで戦争は起きているのに、一生懸命考えて見ようとしないから、それはいつまでも架空の敵でしかない。
地球という小さな世界の話なのに、誰も耳を貸そうとはしない・・・遠くの事として見ないように心がけている。
日常は繰り返され、誰と戦っているか分からない戦争は日課と化していく。

そんな考えない大人への子供からのメッセージ・・・どうして考えないの?
子供の静かな反戦運動・・・子供が何も知らないと思ったら間違いだ、大人のしている事はみんな見ているぞ!っていう表明だ。
子供の兄というズレが生み出す言葉は、子供達の内なる声として響いていく。

最後に、戦争の終了が告げられる・・・宇宙人との戦争という体裁を物語では採用しているが、これはメタファーであり、愛の音楽に免じて地球を壊すのは止めておくという宇宙人の声は、愛こそが地球を救うというメッセージだ。

宇宙人が言う、終戦の記念に愛の歌を歌うよ・・・。
草原で、空を見上げてその歌声に耳を傾ける兄、そこに現れる弟・・・その手には聖剣エクスカリバー(金属バット)、兄の頭をめがけて振り下ろされる。
そして兄の時間が動き始める・・・そして兄の時間は止まる。
最後の最後で、物語のスタートへとループすることになる。

この物語の秀逸さは、最後のこのシーンに集約される。
つまり、戦争やら愛やら語ってきたけれど、結局は兄弟のケンカのレベルに話を落とし込む。
物語の展開に落ちをつけて、こう言っている「本気にするなよ・・・物語だよ」って。
そうやって観客を引き離して、現実に置き去りにする。
その清清しさに観客は難しい解釈などをすっかり忘れて、家路へと急がされる。

お子様ランチで、結局最後にプッチンプリンを出されたと考えるべきだ・・・幾ら高級なお子様ランチでも、所詮お子様ランチだぜ・・・絶賛したら馬鹿を見るのはそっちだよ。
そう言われて、結局はお子様ランチ(ファンタジー)であることを気が付かされる。

難しい事を書いたかもしれないけれど、結局は楽しめたかどうかが問題なんだ(作者に最後にそう言われた気がした)・・・その意味では75点。
本は素晴らしいと思ったけど、演出とか役者とかでは満足できなかったので・・・。

ぼくにとどけきみのうたごえ・・・。
どこかの戦争の地から、平和の歌声が聞こえてくる日を夢見る事にする。

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2005年04月23日

高山植物園『灰の中から蘇った男と女』

駒場アゴラに青年団リンク・高山植物園「灰の中から蘇った男と女」を見に行く。
こちらの劇団は初見・・・作・演出の髙山さなえさんは国費でインドネシアに留学するらしいので、一年ぐらいこちらの公演は見れなくなるそうですよ。
別に、それがあったから観に行った訳ではなくて・・・前々から気になっていただけなのですが。

舞台はとある家のリビング・・・中央にちゃぶ台のようなテーブルが置かれ、その周囲にソファーとか椅子が配置されている。
そこに眠りこける女2人の姿から物語は始まる・・・屁をこく女・・・その音でもう片方の女が起きる(おならの音が上司の声に聞こえたという)。
正直に言って、酷い有様だ・・・寝姿のブサイクから始まって、おならのブサイク、言動のブサイク・・・極めつけに顔のブサイクと来る訳であるが、顔の出来不出来などどうでも良いってぐらい、それ以外がブサイクな女達である。
このどうしようもなさが心地よく昇華されることを望んで止まないお芝居である。

なんでもこれから3姉妹の合コンが始まるというのだ・・・しかも相手は実の叔父さんとか幼馴染・・・彼らはこの3姉妹に騙されて東京に出てきた可哀想な人達なのである。
また更にどうしようもない奴らが集まって行われるどうしようもない合コン。
こんな設定のイベントが上手く行くはずも無く・・・だらけムードいっぱいになっていく。

内容も無く、大した笑いもない・・・。
どうしようもない物語がどうしようもないお芝居へと切り替わっていく・・・メタどうしようもない?

結局のところ、3姉妹の物語であるわけで・・・飾りとしての男達でしかない。
女それぞれの男性観を描く為に必要な道具ではあったと思うが、果たしてそれが最終的なメッセージにどのように生きてきたのかは定かではない。
というか、私は最後の5分だけでよかったと思うし、そこには男という要素は絡んでいなかったはずだ・・・3姉妹の相互関係の問題に終始して、結局そこへと行き着きたかったのであろう?
ブサイクの長女と次女・・・1人ずれている三女・・・この対立項を描ききるべきであったという気がする。
最初のオナラの構図はまさにこの2:1である訳だし、最後もちゃんとそうなる・・・作者が描きたい事は最初から分かっている訳だし、それを伝えきる為の物語が私としては欲しい。
作家のいいたい事は、最初の5分と最後の5分で足りている・・・なんて、観客に思われる作品は作るべきではない・・・理解出来ていない私の問題と言われてはどうしようもないけど、少なくとも今現時点では、そういう感想だ。

眠る事の喪失と起きていることの確信・・・そこにあるのはメッセージでもなく、ただ起きているべしという漠然とした意味のようなものです。
三女が語る宣言・決意表明としての「起きている事への欲望」は、失い欠けている者が零れ落ちていく自分を繋ぎ止めておくための最善として定義されている。
だからこそ、彼女はその睡眠薬による眠気に抗するようにテーブルへと立ち上がり、自分が仕掛けた睡眠に自ら立ち向かう姿として描かれるのだ。
睡眠と目覚めの狭間には背中合わせの喪失感があるという発想には納得するし、それを自らに飲み込ませる事で、そこに自分を確信するという女のアプローチには解決しない解決が与えられるというエンディングはスッと飲み込めて、心地が良くはあった。

中盤のどうしようもなさに私は納得できていないけれど・・・。

>>休むに似たり。
「女であることに対する逃れようのない性的な欝屈を病的なまでに描き続ける中盤は高山節全開。」
そっか~初見だったので・・・不満だった部分が高山節だったらしいです。
まだ、読み解き方が分かっていないようです・・・鍛錬かな?

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はらぺこペンギン『煩悩 IN THE SKY~1998、夏~』

下北沢OFFOFFシアターにはらぺこペンギンの第5回公演「煩悩 IN THE SKY~1998、夏~」を観に行って気ました。
こちらの作・演出の白坂英晃氏は若手演出家コンクールで最終選考まで残っていた方・・・そちらには顔を出してはいないのですが、目には止まっていてこの「はらぺこペンギン」という何とも可愛らしい劇団名が頭に残っていました。
今回は、招待券を頂いたので、いそいそとチェックに行ってきた次第。

以下HPからの引用・・・
『通常の会話劇では表現しきれない長いスパンでの壮大な物語を構築している。これを「リアルとポップの共存」と定義し、「演劇でしか出来ないこと」と「演劇でも出来ること」の両方を舞台に乗せる、次世代演劇の新たな形を提供している。』

お~なんか凄いものを見せてくれそうな匂いがプンプンしてくる劇団紹介・・・次世代演劇の新たな形ですか!!これは期待せずにはおれませんな。

蓋を開けてみてビックリ!・・・見終わってプンプンしてきてしまいました。

早稲田大学演劇倶楽部が母体となって作られた劇団とのことですが、結局、その母体となった学生演劇の枠は飛び越えていない印象。
学生演劇が学生演劇の枠を乗り越えるのはなかなか大変な事だろうというのは容易に想像できるのですが、結局飛び越えようという努力が垣間見えないのが今回の公演の問題点ではないだろうか?

まぁ、学生演劇って言葉が一体どういう定義なのか定かではないので、下手に使うと問題な気がするのですが・・・。
学生が出ていればそうなのか?・・・これはちょっと感覚的に違う気がします。
学生がやっていても学生演劇じゃないと感じるものもあるし、その逆もある・・・そういう事から考えると学生演劇には2つの階層があるのではないかと感じる。

まずは、大学とか学内のサークルで行われている演劇活動・・・基本的に演劇批評の対象にはなり得ない既成台本での公演や、特定のコンセプトや思想で動いていないことが条件となる低次の学生演劇。
次に、高次の学生演劇の定義は、学生としての年代を等身大に、且つ日常に照らし出して描かれた作品と考えられる。
つまり、どういう切り分け方をしたかというと、内側が学生の場合と外側が学生の場合の2つに切り分けてみた。

「学生演劇っぽい」という言葉が聞かれるが、前者の意味であればマイナスな評価、後者で使われていれば決して悪い意味だけではないだろう・・・。
もう1つ、和気あいあいといった意味で使われる事もあるけれど、それは演劇に中身に与えられる評価ではないので、論外にする。
まぁ、こうやって定義すると今回のはらぺこペンギンに与えられる言葉は自ずと見えてくる。

「学生演劇で学生演劇をやっている」

学生が学生(今回は高校生)を演じると何の面白みも無くて、率直にそこに等身大の日常が見えてしまう。
役と実物にタイムラグが無いと、ハッキリ言って普段の彼らがそこに見え隠れしてイタイタしい。
演劇で中学生日記を見せられる事ほど、馬鹿馬鹿しいものは無いだろう。
中学生が中学生日記を演劇でやるのは、清清しくてよい。
高校生が、高校時代をテーマに人生を語るのも良いだろう。
ただし、大学生が高校生活を・・・しかも日常をリアルに描いて何が楽しいか?。
結局それは、高校生の二番煎じだし、大学生がやるべき価値のあるものではない。
そんな青春は高校生の為に残しておいてやるべきだ・・・大学生が芝居を作るなら青春なんて陳腐なレベルで争ってもしょうがない。
学生演劇で学生演技をするなんて自己完結・・・見る側はそこから何を拾い出せばいいのですか?

以前、同じような話(物語の枠組みはありきたりにも程がある)を別の劇団でみたのですが、そこはもっと年齢が上で、30代の役者が高校生を演じていた。
だからといって学生演劇だなと感じた訳じゃない・・・30代から見た青春には、学生が知っている青春とは異質なものが挟み込まれている。
青春なんてものは生ものなんだと思う、だからこそ年を経ただけの味がそこにはあって、おじさん達が語る青春には、もはや日常ではなくなった青春が刻まれている。
役者と役柄のタイムラグが大きい所為というのもあるだろうが、私の感覚で言わせてもらえれば青春の形が違うからだと思う。

なんか、学生演劇っていう感覚からまた長々と書いてしまった。
しっかし、私の文章は、学生文章だな・・・等身大の日常そのものだ。

さてさて、はらぺこペンギンであるが、次世代の演劇とは如何に?
もしも本気で言っているならかなり問題発言だと思います・・・お芝居を知らな過ぎます。
お芝居の中のお芝居という印象、今時ここまでお芝居な演劇も珍しいと思うのですが、如何でしょう?

う~ん、誉めるところといえば、ちゃんと最後盛り上げてくれた事でしょうか?
音楽で盛り上げられた感は拭えないのですが、テーマの無い(青春ってテーマ?)お芝居なので音楽で盛り上げるしかないですよね。
青春扱ったなら、涙の一粒も流させてくれなくちゃダメ!・・・人間、過去には逆らえないのですから。
盛り上がりであと2回ぐらい琴線を刺激されたらウルウルできたと思いますよ。
長い!ので下手にエピソード加えられても困りものですが・・・。

あ~誉めてない・・・。

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2005年04月22日

劇団上田『上田展』

パルテノン多摩に劇団上田の「上田展」を観に行ってきました。
本年度の小劇場フェスティバル、第1作目であります・・・変体男爵暗黒の脇毛編ということで、果たしてどんな作品なのでしょうか・・・。

椅子が7つ並んでいる・・・そこに、黒いタイツと白いワイシャツを着た男達(1人女性)が粛々と現れる。
皆、黒のサングラスを掛けている・・・椅子に座ってそれぞれ思い思いにくつろいでいるが、1人がおならをする。
最初は、おならするなよ~という反応を周りはしているのだが、いつしかそのおならが連続的に繰り返されるようになり、気が付くとそれは音楽になっている。
音楽の名前は忘れたが、有名な曲だ・・・それを各々がおならで表現していく、おならの音に合わせてお尻を上げたり体が飛んだりという典型的な「おなら動作」をする訳であるが、それが上手いこと演出されていて、見ていて心地よい。
馬鹿っぽい事なのだが、ちゃんと練習してリズムが狂わないようにするというのは簡単ではないだろう。

それが一通り終わると暗転・・・そこは男爵が住むお屋敷・・・ホラーの雰囲気が漂っています。

始めのパフォーマンスで完璧にお客さんの心を掴みまして、私もこれは期待できるなぁという印象を持ちました。
その後も、物語とは名ばかりにパフォーマンスというかコントというか、その境目をスタスタと7人で渡っていくお芝居。
皆さん、キャラクターが濃くて、この人たちきっと普段からこんなテンションで生きてるんだろうなぁ~と思ってしまうぐらい、素でやっているというのが伝わってきました。
自分達が面白いと思う事を、自分達でやっている・・・だからこそ皆さんあんなにも伸び伸びと飛び回っているのでしょうね。
劇団という枠組みで動いて、演出を置かずに自分達の意見で自分達が動いているというスタンスが滲み出ておりました。

正直に言って、一番最初に面白いものを見せすぎたような気がします。
その後のテンポの悪さ・・・パフォーマンスとしてはそのリズムであることは全く問題ないのですが、勢いのある出し物を最初にしてしまったが為に、どうしてもその後の静かでゆっくりとしたパフォーマンスはブレーキのように感じてしまった。
構成から考えても、最初に導入としてのホラーテイストの暗がりでのパフォーマンスをして、お客さんに「なんだなんだ?」と思わせておいてから、おならパフォーマンスでも良かったような・・・(幕間でもいいな)。
ダンサブルなものや、コントテイストのもの、ハードボイルドから白鳥の湖までと数々のパフォーマンスを織り込んでいて、それぞれは十分に観るに耐えうるものではあったのですが、何しろごった煮的な印象が強い。
確かに「上田展」というタイトルからすれば、これこそが劇団上田のいろいろな側面を一度に見せるという作品集としての立場なのであろうが、見る側からすれば、何がコンセプトか、何が軸か、何を感じて欲しいのか分からないというのが本音。
「濃密なエンターテイメント空間」としての演劇公演と、「実験的極上人体表現」としてのパフォーマンスアトラクションがあるとのことですが、私の感覚としてはパフォーマンスよりの演劇という非常にポジションの不安定なところの公演だったなという気がします。
横断的な領域での出し物なのでしょうから、観る方はもちろん、きっとやる方も非常に難しくて、結局演劇のベクトルで見れば弱いし、パフォーマンスで見てもやはり弱くなる。
領域横断的な作品は100%を超えないとそれぞれの領域に投影した時にレベルの低いものに捉えられがちである。
演劇&パフォーマンスというベクトルがあれば評価のしようもあるのですが、なかなかに難しい。

そういう切り出し作業をすることは、劇団上田が望まない評価手法であろうと思うので、極力避けるようにするつもりである。
光り輝くパフォーマンスがある中で、どうしても雰囲気を壊しているものが存在する。
今回がこの劇団の初見なので、見誤っている可能性は大きいのであるが、言葉を発する作品が浮いてしまっていた。
食器で音楽を奏でるといったパフォーマンス(新しいとは思わないが)は楽しく見ていられるのだが、途中に配置されたコントは要らなかったと思う・・・何故なら言葉を喋らない肉体のパフォーマンスとしての部分の方が面白くて、且つそういうのが多かったから。
ただし、じゃあ全部パフォーマンスにすれば良いのか・・・というと違う気がしていて、私としてはもっと始めから言葉を発していく方が良いのではという気がする。
ここまではパフォーマンス、ここからはコント・・・とするとどうしても統一されたものというよりはぶち切れの出し物になってしまう。
劇団上田と名乗って、その全てをひっくるめたものが1つの作品というのならば、その境目をぼかす所作をするべきではないか?

始めに、パフォーマンスを持ってくるとガーンとその印象が付いてしまって後々に縛りが出てくる。
徐々に上田世界に引き込む方が、後半の自由度が増す気がするので、始めは会話を中心になんともありきたりな芝居の風景で入るのも手ではないかという気がするのだが・・・。

今回は、初めのおならパフォーマンスが効きすぎて、先細りという印象は拭えなかった。
ごった煮ではなくて、様々な素材を最大限に活かしたフルコースがお客様に出せるようになると、きっと5つ星レストランの仲間入りでしょうね。

というわけで、今日は劇団上田の観劇評でした。
個性豊かな演者が多くて、いままでに見たこと無い雰囲気・・・それとパワーに溢れていてよかったと思います。
役者さんたちにも注目していきたい舞台でありました。
特に・・・紅一点の萩原もみぢさん・・・一服の清涼剤とは当にこの事か?!

会場にひげ太夫の吉村やよひさん発見・・・声かけたかった~ファンだから・・・。
普段から、アジアンテイストの服装なのですね・・・なかなか斬新でありました。

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2005年04月17日

シアターガッツ『ウルトラコージ』

パルテノン多摩に劇団シアターガッツの「ウルトラコージ」を観劇に行ってきました。
この劇団は、昨年のパルテノン多摩小劇場フェスティバルの最優秀賞受賞劇団で、本年のイベントのオープニングを飾るという意味での公演でありました。
こちらの劇団は名古屋の劇団・・・名古屋らしさが出てましたよ。

ウルトラコージというタイトルからも大体想像できるところですが、ウルトラマンのパロディーです。
冴えない男・三上光司はひょんな事からウルトラマンのリクルーター・ウルトラマンマイドからウルトラマンになる道を告げられる・・・憧れのウルトラマンに成れるという事からあっさり誓約書に判子を押してしまったからさぁ大変。
恋に仕事に、世界平和に・・・光司は果たしてウルトラコージとして生き方にプライドを持つことができるのか?

っていうのが、物語の設定であり、実は全て・・・。

500円も払って買ってしまったパンフレットにある主宰・品川浩幸氏の言葉の中にありますが、「究極の怪獣ごっこ」という言葉を本作品に送っています・・・そして、史上1・2を争うくだらなさとも・・・。
なるほど確かに・・・くだらないです。
見ていない人に、このくだらなさを言葉で伝えるのは難しいのですが、本当にくだらない。
おっぱい星人が登場してきて、地球でおっぱい星人を語る偽者達を全滅させようと試みたり、合コンに参加したいと地球に侵略したり・・・。
ウルトラものですから、ちゃんと怪獣も出てきます・・・全部で4体出てきますが、これもまた怪獣ごっこお決まりのくだらない怪獣達・・・中でも名古屋城の上に付いていたあれが、万博に送らせる際に巨大化とか、ハッキリ言ってお馬鹿なんです。
まぁ、その辺の馬鹿馬鹿しさを理解して、敢えて狙っているようなので、別に文句は無い。

ちゃんと戦いのシーンは、馬鹿っぽいながら上手く作れていたし、十分に面白いモノに仕上がっていて、そういうシーンでのお客さんの反応もとっても良かったので全くもって問題は無いし、私も何かを言う気はないです。

ただし、戦闘以外の部分はかなりタルイ・・・役者の演技もあるだろうが、まずは脚本レベルで練りこみが甘すぎると思った。
語られる言葉のひとつひとつも安い感じでありますし、総和としての物語も何かこれといって心に伝わってくるまでという感じでもなかった。
地球か恋人かってなっている割には、恋人との葛藤が描かれていない・・・怪獣ごっこなので怪獣がメインなのは良いのですが、だったら恋人なんて迷惑極まりないエピソードなぞ挟まずに、終始馬鹿っぽいテイストで締めくくってくれた方が、見ているほうは満足できただろう。
恋人との関係を描くのであれば、描くなりに昇華させてあげて欲しい。
今回のエピソードでは弱すぎるだろう・・・光司と彼女とのやり取りが、最初と最後にしかなくて、もっと内面の葛藤を外側に放出するシーンぐらいあっても良かったのではないでしょうか?
そういうのを挟んだ方がエピソードが活きてくるでしょうね・・・きっと。

全体的に、物語を消化しきれていない・・・中途半端な物語は、中途半端なイメージを観客に植え付けるだけでしょう。
あ、あと役者もあんまりパッとしなかったかな・・・学生演劇的な匂いの漂う劇団かな。

怪獣とかウルトラマンの衣装は凄いと思った・・・お金掛かっているなぁ、というか凄いと思う。
着てみたいですわ~。

話は変わって、名古屋的な匂いが伝わってくる。
名古屋っていう土地柄は、なんでも商売っ気がやたらと強い土地柄なんだそうですが(喫茶店入るとすごいらしい)・・・この劇団も商魂たくましいと思いました。
パンフレットは500円だったり、Tシャツにストラップ、ウルトラコージパジャマにトレーディングカードにガチャガチャと、あんたら劇団か?グッズショップか?という感じの品揃え。
すごいなぁと思いました・・・ポストカードとか作っているところは他にもありますが、トレーディングカードを作っていた劇団は初めてですね。

パンフだけ購入しましたけれど・・・。

来月に東京で同様の作品を上演する模様・・・もっと小さい劇場での公演になるのできっと更に面白くなると思います。
時間もあるので、もっと脚本の練と役者の練をして欲しいと思います。
名古屋では結構有名な劇団なのでしょうね・・・そんな匂いがぷんぷんしてきました。。

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2005年04月15日

青年団プロジェクト公演『隣にいても一人』

駒場アゴラ劇場に青年団プロジェクト公演「隣にいても一人」を観にいってきました。
この作品は、平田オリザが盛岡に滞在して作り上げた盛岡版との事・・・女優は盛岡出身の劇団員を使い、男優は盛岡で活躍する俳優人を客演しています。
最近、青年団嵌ってるなぁ・・・。

舞台は、畳の敷かれた和室8畳間・・・真中にちゃぶ台が置かれ、座布団が2つ。
ここは、盛岡のとある家のとある部屋なのだろう・・・そこで、男と女が向かい合っているシーンから始まる。

2人は、目が覚めたら夫婦になっていた。
寝る前までは、2人は義理の兄弟であった・・・それぞれの兄と姉は結婚をしている・・・まぁ離婚寸前ではあるのだが。
そんな、互いに実はそれほど接点も無かった2人が、ある日目を覚ましたら夫婦になっていた。
別に、記憶を無くしたとか、一夜の過ちとかそういうのではなくて、夫婦であるという感覚だけがある。
互いに、あまりに突然の事に困惑はしているのだが、夫婦であるということは疑いようも無く・・・2人はその日、急いで婚約届を出すとか、一緒に住み始めるといった計画を立て始める。
そんな2人に当惑する兄と姉の夫婦・・・。

何だろう・・・青年団らしからぬSFな話・・・。
カフカの変身を引き合いに出すけれども、まさにそんな感じなストーリー。
理由とか原因とかそういうことは一切物語で語られる訳ではなくて、それらを事実としてのみ受け入れていく2人が描かれる。
どっか別の劇団がやりそうな・・・、シチュエーションコメディーテイストが散りばめられていて、演出の仕方によっては笑いにメーターの振れそうな設定。
そもそも、この作品は、別の劇団の為に平田オリザが書き下ろした作品ということなので、青年団のそれとはテイストが違うのかもしれませんね。
けれど、青年団がこの設定の中で動くと、こうも私達の常識を覆すか!という印象が残る。

それは、「フィクションのルールの中でのリアルの再現」とでも言うべきアプローチである。
私は手法としてはカフカよりも「生きる屍の死」というミステリー小説を思い出してしまった。
この作品は、死人が生き返るという謎の現象が起きる世界で起こる殺人事件を、生きる屍である探偵が解決するという作品。
つまり、何故人々が生き返るかは分からない・・・けれどミステリアスな殺人が起こったならば、探偵は謎を解かねばならない・・・しかし、死体は生き返る。
この小説の面白さは、フィクションのルール(死体は生き返る)の中でこそ可能となる推理を展開させる面白さ。
つまり、現実では通用しない理論も、その小説の中でのルールに従ってさえいれば、それは理論として正しいというシステム。

今回の作品を見ていて感じた事、それは生きるとか死ぬではないにしても、この物語はこの物語の中でしか通用しないルールを受け入れた人物達によって描かれている。
ミステリー小説でいうところの謎解きは、この芝居では会話に置き換えられる。
どういうことかと言うと、つまり夫婦に突然なってしまった男と女の会話、打ち明けられ困惑する兄姉達の会話・・・それぞれの会話が、イコール夫婦になってしまった男と女の心理という謎を解く行為なんだ。
そこで、どれだけ不可思議な言葉が展開されようとも、それは彼らにとってはリアルであるというのが条件であり、そこで繰り広げられる会話こそがリアルの再現・・・平田オリザによる謎解きである。

最後にパジャマを着ますね・・・最後の最後で、日常を飛び越えるということなのでしょう。
あそこから、2人の新しい日常が始まる訳です。

しかしさてさて、きっと次の日目が覚めたら、もとに戻っていることを願ってやみません。
そんな、目が覚めてたら夫婦になってたなんて、虫が良すぎますからね。

会場外で平田オリザさんがお客さんをお見送りしていました。
お、生で初めてみるわ~って思いながら、挨拶しましたよ・・・いいね・・・リアル。

>>erewhon diary
描かれている人々の心の模様と、その時に筆者が感じた素直な気持ちから、物語を読み解いています。
とっても読みやすい文章で、お勧めします。

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2005年04月14日

楽園王『ELECTRIC GARDEN』

町屋という偏狭の地に楽園王IIXVIII公演「ELECTRIC GARDEN」を観ました。

とても綺麗ではある、私は好きなタイプだ・・・テクノイズな音楽のノリ+照明効果・・・抽象的な世界を場面展開で次々に語っていく。
半円形舞台で、中心の舞台を取り囲むように座った客席の後ろでも役者が演じる。
対面の客の後ろの役者を見たり、後ろからの声を聞いたりと、舞台の使い方は変わっていましたね。

役者の演出も私の好きなシーンは多かった・・・薬のような言葉を探す女の動き方+話し方。
ゆっくり足を前に出す、まるで歩き方を今覚えたかのようなぎこちなさ。
話し方もそうだ・・・言葉を殆ど忘れているという設定なので、まぁそうなのだが・・・こういう単語のレベルを壊す話し方ってそれだけで深層を描いているように見えるからテクニックとして採用しても良いかも。
こういう言葉レベルの演出方法って最近多いよなぁ・・・解体することで言葉が際立つという道理。

あと、場転がいいな・・・青い照明をゆっくりと明滅させながらの場面転換はその中で作業する役者の動きを魅力的にする。
あの光の中で肉体が動いていると、ただモノを運んでいるだけにも関わらず・・・なんか、パフォーマンス的な匂いを含むに至る。
細かい部分にスタッフワークワークレベルでのセンスのよさは伝わってくる。
その総和としては十分にオリジナリティーある演劇と言えるだろう。

というように、演出上、私好みな手法が採用されて個人的にその面では楽しめたかな。

ただしバランスの悪さを感じる。
まず、脚本が良くない・・・お芝居の雰囲気と語られる脚本の親和性がかな~り悪い。
抽象的で解体的な空気が漂う舞台なのに、異様にリアリティーのあるシーンが多くてちょいとばかり雰囲気壊していた。
ハッキリ言って、面白いシーンとか要らない・・・笑えない笑いはあの空気の中では毒薬でしかない。
ツァラトゥストラとか言って、人間の深層を描こうとしている作品なのに、人間のリアルな部分が如実に出ていて、その混ざり具合の気持ち悪さに嫌な気分にさせられる。
水なら水、油なら油とそれだけなら使い道も価値もあるのに、混ざった瞬間に使い道も無ければ、価値も無くなる・・・気持ち悪いだけだ。
そういう言葉が正しいと思う・・・これで上手く伝わるだろう。

インスタレーションとなるだろうという作家の言葉が示されているが、それは一部でしかない・・・アートを名乗るならアートであるべし・・・そこには人間の匂いなど混ざってはいけない。
翻って現実を露わにするというならば、その道具がリアルであってはならないと思うんだ・・・リアルとの接点を抽象的な言葉や演出で表現しなくてはならないだろう。
現実の解体こそが観客を現実に対して自己省察させる。

もっと、徹底して具体を排除して欲しかった・・・そしたら、本当に大好きだと思う・・・私は。

女性陣の演技は良かったと思う。
男の演技はどうも人間臭すぎる・・・女性からは匂いが漂ってこない・・・無機的な空気だけが伝わってくるのであります・・・それが良い。

過去公演のページを観ると・・・おもしろそう。
楽園王、綺麗だ・・・また次も見に行きそうな気がするが・・・いろいろと問題点は多い。

>>Wonderland
ご紹介していただきました。
感覚で見に行く劇団を決めているので、時折他の人が目を向けない劇団にふらりと行くことがあります。
それが、変なところをカバーしているという印象になったのでしょう。

>>蒼 霄 碇 泊
本公演で、娘役、上で語った言葉を探す少女の役だった吉田郷子さんのページ。
出演陣の写真が載っているのですが、塩山真知子さんの写真から推測するに、コスプレが私が見たときと違うのですが・・・もしかして日替わりだったのでしょうか?
彼女のコメントがWonderlandに記されています。

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2005年04月13日

ひげ太夫『蛇骨ボウズ』

大塚駅の近く萬スタジオにてひげ太夫の第18回公演「蛇骨ボウズ」を観てきました。

ひげ太夫はこれで何回目だろう?・・・4回は観ていると思う、立て続けに観ている訳ではなくて、3回に1回ぐらいのペースでいつも観ている感じだ。
この見方が、この劇団の本質を暴いている気がするので、今回はこんな私のポジションから話を始めてみたいと思う。

ひげ太夫は役者と言わずに「出し物師」といつも書いていると思う、役を演じるというよりも出し物をする人というニュアンスを出したいのであろう・・・そのアプローチは間違っていない。
ひげを書いた女優が体を武器に京劇とか歌舞伎とか、なんかそんなトラディッショナルな雰囲気の舞台芸を混ぜこぜにした作風です。
ちなみに、本当に女性しか出てこない・・・女性が組み体操みたいなことをして建物からミッフィーまで表現していく。
「ダーーー」とか「キラン!」とか効果音も殆ど声だし、音楽まで声と体でやってのける。
正直、馬鹿な芝居だけどオンリーワンを見ることができるので好きだ。
ホンコン映画ばりのNGシーンがエンディングにあるんだけど、もうそれが最高!!

ハッキリ言って、毎回変わるのは物語だけで、基本的な道具は4回観ているけどその4回でそれほど変ってはいないと思う。
だから、毎回毎回見る必要は無いかなぁって思ってしまう・・・でも、あまりの馬鹿馬鹿しさと面白さは保証してくれる感じなので、時折「ひさびさにひげが恋しいぞ!」って感じで観に行きたくなる。
今回もまさにそのパターン・・・招待券を頂いたというのもあるけど、たぶん無くても観に行っていたと思う。

で、今回なのですが、久々に観に行ったところ、私が知っている役者が座長の吉村やよひさんだけになっている。
最初に見た時のメンバーが強烈で、それからだんだん人が入れ替わっていったのは気が付いていたが、ついに殆どが新メンバーなの?ってくらい分からない。
そして、いつもよりトータルのメンバーが少ないようにも感じる・・・組体操とか人数で迫力を作るっていう側面があるだけに人が少ないのは、それがそのままパワーの減少に繋がっている気がする。
確かに、体力勝負なところはありますし、生傷も絶えないことでしょう。
女性というのもあって、劇団のコンセプトとの距離感は遠い・・・よほどの気合がないといろいろと難しいお芝居だとは思いますが・・・正直、座長の吉村さんも長いですよね。

あと、新しい人たちが危なっかしくて見ていられない。
これは私の中で新しい人たちというのもあって、信用できない感があるし、今日が初日だったというのもあることだろう。
そして、まだまだ集中力も足りていないし、急いでいる感じが伝わってきました。
まだまだ、私の中のゴールデンメンバには敵わない感じですね。
新しい人は、なかなか劇団の要求に応え切れないでしょう・・・見ていない人はいまいち想像できていないかもしれないけれど、普通の役者には全く関係ない部分でかなりハイレベルなものを要求されている気がします。

しかし、なんでこの劇団お客さん入らないのだろう?
こんなに面白いのに、いつ行っても結構空いている・・・私が行った一番最初の時が一番混んでいたかも知れないなぁ。
パワーダウンの印象は拭いきれないですが、私の前の席に座っていた男性なんか、笑い捲くってましたよ。
以前、芝居を殆どみない友人を何人も連れて行ったときも面白い言うてましたし、結構万人には受けるのだろうし、大きくなっていってもおかしくない劇団だったはず。
正直、座長のパワーの限界がこの劇団の限界なので、もしかしたら先はあまり長くないかもしれません。
ハッキリ言って、彼女の為の劇団ですので・・・あと何回できるのか・・・。

見届けたいと思います。

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2005年04月10日

劇団、本谷有希子『乱暴と待機』

新宿のシアターモリエールに劇団、本谷有希子の「乱暴と待機」を観に行ってきました。

劇団史上最小の4人芝居ということですが、本谷節は顕在。
まぁ、私は今回で2回目なので、何が本谷節だかも正直定かではないのですけれど、きっとこれが本谷有希子の面白さなのだろうという部分はあります・・・それを称して「本谷節」です。

今回のコンセプトは、タイトルからも分かるとおり「対立項」という事が出来るでしょう。
人間の内側での対立・・・関係の対立・・・言動の対立・・・数多くの対立項が重層的に絡み合って生み出された作品と言えるだろう。
それは、まさに本谷有希子という作家性とも直結する話である。

概して、物語には対立という構造が必要不可欠であるもので、その葛藤にこそ感動や悲しみが埋もれているものです。
本谷は、その対立の触れ幅が異様に大きい。
悪く言ってしまえば、極端であって、リアリティーとはまた少し違う次元へとんでいく印象がある。
前回の「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」では、女性という性の内部に潜む対立項が如実に出ていて、そのブラックボックス的な性質の断面をスキャンして拡大コピーという感じの舞台であった。
この舞台も、リアリティーとは違う側面に達していて・・・そのグロテスクさが物語の核になっていて、本谷の作家性を体現している。

今回は男と女の対立が描かれる。
しかし、そこら辺に転がっている愛だの恋だのという対立を扱う訳ではなくて、そこは作家の腕の見せ所という感じに、復讐をする方とされる方という、またもやリアリティーに裏打ちされない、振り切れたキャラクターが織り成すグロテスクな関係を表現していく。
この気持ちの悪さを現出させつつ、観客を嫌な気分まで持っていかない・・・その言葉の使い方の妙である。
概して、人間の心理を描こうとすると賢い言葉に落ちていったり、観客を無視しがちになるのだが、本谷の上手いところは、エグイ世界を描きつつも、言葉が軽い・・・結局、どっちもどっちだなぁって思わされる。
対立を描きつつもどちらも問題あり・・・でも、どっちも可愛いなぁって感じで、スッと受け入れられるやさしさがにじみ出ている。
巷で流行っているキモ可愛いって感じかな?
この文学的な人間心理の探求と受け入れられる舞台のバランスが良い。

今回の作品は、最大の苦痛をもたらす復讐を考え続けて未だに復讐できないでいる男とその復讐を受ける為に日々笑いのネタを考え続ける女の不思議な同居生活を中心に描かれます。
女は他人の気持ちを尊重するあまりに結果が裏目にでる・・・その裏目が周りの人を不幸にしていく。
そんな彼女の中にも対立はある、それはまさに他人と自分だ。
抑圧の対象としての他人と自分のどちらがくるのかというものが、相対的な関係をちゃんと保っていて、常に彼女の葛藤として表面化しているのが良い。
この葛藤こそが本谷有希子の本性であって、本作品でも丁寧にその部分が強調され、それを埋め合わせるための物語が付随していく。

本谷のバランスの良さは、笑いの上手さであるとも思います。
今回も、彼女のネタなのかどうかは定かではないのですが、それらを入れる隙を与えているという意味では、やはり上手さなのでしょう。
面白かったのは「ウゴキ饅頭」と「ねじ式」。

文学的な味わいが強い、人間性の希薄化とか葛藤のズレみたいなものが匂いとして漂ってくる。
最近のオールナイトニッポン進出など、彼女を取り巻く環境がそのセンスへと向かっていっている。
近いうちに、文章の方で何らかの評価を得ることになるでしょう。

間違いない!

>>正しくも松枝日記
女性視点で書かれている詳細な物語の解読。
女性は泣いていたんですね・・・みんな。

>>踊る芝居好きのダメ人間日記
某韓国映画の音楽って何なのでしょう?
プロデュースタイプの劇団って、どうしてもクオリティー高くなりますよね。
今後、こういう戦略は流行る様な気がします。

>>休むに似たり。
私も書きましたけれど、「一見暗くて気持ち悪いのだけど、涙ぐむほど、気持ちが震えるのです」という言葉、本谷有希子・・・何故かその言葉がピタリと来るのです。

>>こんなものを買った。
ご紹介いただきました。
悲劇として閉じない結末という表現はおもしろい・・・これもまた彼女の作品の良さなのかもしれません。

>>ほぼ観劇日記
同世代の演出家・作家からは頭一つ抜けた感があります。
・・・そうなんですよね、何故そこまで抜け出るのか、解せない部分もあるのですが、飛び出ているというのは間違っていない指摘だと思います。
戦略コンサルでも後ろについているのでしょうか?

>>しのぶの演劇レビュー
筆者の興奮が伝わってくる文章になっています。
私は席がとても後ろ方だったため、物語とか役者の動きは見えたのですが、細かな表情まで見えなかったので、とっても残念・・・萌えられるほど近くで見たかったですね。

>>臭い人
意外と身近に起きていること・・・お芝居の中での会話をこの言葉で括っておられます。
そうですね・・・本谷有希子の裏側には、そういう身近なところの小さな感覚を遠くへと飛ばすというテクニックに支えられているような気もします。
だからこそ、観客の心に少なからず引っかかってくるのではないでしょうか?

>>きくちブログ
台本が巧みさを指摘されています・・・歪みを味わえるように美味く料理されてると書かれていますが、私も書いたように、お客さんに伝わるような作品に丁寧に仕上げている。
そこが、「巧さ」だと思いますね。

>>快楽的二輪旅於電子網.はてな?
最後の復讐の意味についての深い議論をされています。
存在の意味とそれを復讐へと結びつける視点・・・面白く読ませていただきました。

>>現代演劇ノート~〈観ること〉に向けて
ストーリーを追うことよりもストーリーを利用してその「深さ」を垣間みせる作中人物の心の襞をこそ味わうべき舞台に思われる。
・・・なるほど、物語よりもキャラクターへと目を向けさせられる衝動はそんな言葉で言い換えられるのですね。
プロフェッショナルな言葉・・・頭が下がります。

こうみると凄いことになっていますね・・・本谷有希子。
この数の多さと、批評の深さ・・・間違いなく、いま注目の劇作家といえるでしょう。
今後には要注目ですよ!

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posted by yositosi at : 22:46 | コメント (4) | トラックバック (3)

あなんじゅぱす『タンポポ咲くソングラインに沿って』

駒場アゴラ劇場にあなんじゅぱすの「タンポポ咲くソングラインに沿って」を聞いてきました(聞いて?)。

ことばをうたうバンドあなんじゅぱすは、1996年の結成以来、ネイティブ・ミュージックの新次元にむけて活動している。
日本語で「うたう」ことで日本発信の音楽を作り上げたいということ、正岡子規の短歌から谷川俊太郎までの100年の言葉をうたうバンドということです。
・・・つまり、劇団じゃなくて、本当にバンドです・・・演劇レビューでいいのかな?。

主催でピアノ+歌をしているひらたよーこは、平田オリザの奥さんです。

ということで、音楽を1時間半聞いてきたのですが、とっても良かったなぁ・・・そもそも可愛い音楽って好きなんですが、可愛いだけじゃなくて、強く、悲しく、楽しく・・・と言葉1つでかなりバンドの性格が変わるのです。
ジャズからピアノソロ、テクノぽいのからサンバな感じと、ありとあらゆる音楽に、日本の詩を重ねていくという作風。
言葉を聞くというよりは、言葉の中を漂うという印象のほうが適切な気がします・・・あんまり片意地張らずに聞こえるリズムに耳をすませるだけでこのバンドのやりたい事が伝わってくる。
ひらたよーこの声の清清しさに聞き惚れているという言葉でも正しい気がする。

それぐらい、なんとなく楽しんできた。

全部で15曲・・・殆どどんな曲か覚えていないけど、いいものばかりだった気がする。
演出というのが付いていて、五反田団の前田さんが担当している・・・どのレベルまで演出されているのか分からないが、その意味でも舞台的ではあるし、歌を歌うのではなくて、言葉を歌うのであるから、それはやはりそういうものを意識してはいるだろう。
演劇とは言わないまでも、それに近い舞台芸術ぐらいには考えていると思う、ひらたよーこ自身は役者でもあるわけだし、演劇における言葉の拡張としてのバンドであると私は読み解くことにした。

ということで、音楽なので、正直いって批判のしようも評論のしようもない。
ただ心がスッと洗われるような感覚になれたということです。

今度も聞きに行こうっと!!

>>休むに似たり。
私も座ったところは失敗でした。
ピアノの後ろに座ってしまいまして・・・ひらたよーこさんの背中しか見えなかった(指は見えたけど)ので、基本的に目を瞑っていました。
リズムに乗りながらですよ・・・。

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posted by yositosi at : 17:52 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年04月09日

燐光群『屋根裏』

小田急線梅丘から徒歩1分?梅ヶ丘BOXにて燐光群の「屋根裏」を見てまいりました。

読売文学賞・紀伊國屋演劇賞・読売演劇大賞[最優秀演出家賞]受賞となんかいっぱい受賞している本作品・・・これは観に行かないわけにはいかないですね。
ですが、その公演も残り1週間・・・今後、観に行けそうな予定が無いので、今日観劇。

素晴らしかった・・・屋根裏という発明を巡る物語、時間が無い中観に行って良かったと思った。
綺麗に裏切られたという印象、屋根裏というタイトルからは、屋根裏を舞台にした物語なのかな?って想像する訳ですけど、蓋を開けると全然違う・・・。

屋根裏という商品、屋根裏の形をした人1人が寝るスペースがあるかないかの組み立て式の箱。
人々はその箱に群がり、屋根裏ブームが起こる・・・模造品が作られ、オリジナルはプレミア価格で取引される。
オリジナルの屋根裏には製作者が記したとされる「屋根裏ハンター」と一般に呼ばれる絵が書いてある。
男の弟はその箱の中で死んだ・・・男はオリジナルの製作所を求めて旅を始める。
弟を殺した犯人が、そこにいると信じて・・・。

芝居は、その小さな屋根裏を舞台に繰り広げられる。
なんて小さな世界だろう・・・人間1人が寝れるだけ、立って会話も出来ない。
何故、ここが舞台になるのだろう?・・・それは、屋根裏が宇宙だからだ。
小さい時、箪笥の中で寝た記憶は無いだろうか?箪笥の中に自分の世界を作ったことは無いだろうか?
あの時、そこは箪笥じゃない・・・自分の意志で